紀州箪笥
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紀伊国(紀州)では、山から切り出された材木が紀の川を流して運ばれ、江戸時代には河口の和歌山城下に木材加工の職人が集まっていた[7]。1846年(弘化4年)に和歌山城が落雷で焼け、4年後に長持ちなどの家具を作り直したと『南紀徳川史』に記されている[4]。
木製家具としては防火性が高く、大火が多かった江戸の裕福な町民にも普及し始めた[8]。19世紀中頃の箪笥が各地の町屋で発見され、武士以外にも重用されていたことが分かっている[9]。この頃になると製作の技術が確立されている[4]。
1901年(明治34年)、南海鉄道が開通するなど交通の便が良くなったことにより大阪圏向けの「地廻り産地」として発達し、生産量が急速に増加した[4][5]。
大正時代、2段や3段の箪笥が作られるようになった。「前桐箪笥」「三方桐箪笥」「四方桐箪笥」「総桐箪笥」など箪笥の種類も増加していった[8]。
昭和時代には海外から西洋式の箪笥が輸入されるようになり需要が減っていったものの、バブル景気に入ると「高級志向」が高まり高級な桐箪笥が売れるようになった[8]。
1980年代には紀州箪笥の製造に関わる事業者は約100社あった[7]。バブル崩壊や高価な嫁入り道具をあつらえる文化が廃れたことなどにより紀州箪笥の需要は低迷し、紀州箪笥協同組合の加盟企業は3社に減ったが、桐の加工技術はまな板や飲食器に応用され輸出もされている[7]。