天正11年(1583年)2月、小笠原貞慶が、謀反をたくらんだとして塔原氏・古厩氏を討ち、沢渡盛忠を捕縛する事件が発生した。このとき、長知は貞慶から小谷方面へと派遣され、当地の監視を務めている。
天正12年(1584年)2月29日、長知は仁科衆の渋田見氏らと共に鬼無里に攻め入って上杉勢を大いに撃破した。長知はこのとき、首6つを戦功として挙げた[1]。
同年4月25日には、森城の改修を渋田見氏とともに担当している。
天正13年(1585年)2月10日には満願寺に対して、安曇郡牧の地を寄進している[2]。満願寺は、同時期に小笠原貞慶の寄進や大工の雇入れ許可も受けており、長知の寄進もこれに連動するものだったと思われる。
天正19年(1591年)には安曇郡青木郷の小物成(山海の収穫等にかけられる雑税)として、「海之役」「赤魚(ウグイか)二百匹」を課している[3]。
文禄4年(1595年)、覚音寺檀那として、原安芸守に覚音寺観音堂の修理を命じている[4]。この文書で、長知は「源長知」と記されており、源姓を名乗っている。この年の9月には、小笠原軍将士を率いて越後国に進攻した。
翌慶長元年(1596年)7月には、石川康長とともに仁科神明宮の遷宮を主導しており[5]、細萱氏の活動範囲は長知の代で大きく広がった。