自分手政治
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寛永9年(1632年)、池田光仲が従兄の池田光政と入れ替わる形で岡山から鳥取に移封され、因幡・伯耆両国を治めることとなった[注釈 1]。伯耆国の米子や倉吉など、藩領内の要地には重臣[注釈 2]が配置された[1]。
鳥取藩においては、鳥取・米子・倉吉・松崎・八橋・浦富などが「町」に位置づけられた[注釈 3]。町は村(鳥取藩では「在」と呼んだ)とは区別され、村々(在方)とは別の行政制度のもとに置かれた[注釈 4]。藩領の町のうち、城下町の鳥取では、町奉行が下僚や「町御用場」(町会所)に詰める町役人を指揮して行政にあたったが[11]、その他の町は各領主に預けられた。領主が町の土地・人民を管理下に置いたことを、鳥取藩では「自分手政治」と呼んだ[1]。
自分手政治の町の領主は、藩の重臣として平素は鳥取に居住しており、各領主家の家臣(鳥取藩から見れば陪臣)が現地の陣屋(米子の場合は米子城)に常駐した[12]。幕府が発した全国的な法令や藩の御法度などは、郡奉行ではなく領主家を通じて伝達された[13][3]。「米子・倉吉・松崎・八橋御定」といった自分手政治が行われる町限定の法令も存在していた[13]。
なお、鳥取藩の地方知行制度は、17世紀半ばに知行地(給地)ごとに決定されていた年貢率を藩が決定するようにしたことなどから、藩士である領主(給人)と知行地(給地)の関係は形骸化したともされる[14][注釈 5]。自分手政治の町の領主たる大身給人は、町以外の村も知行地としていたが、村については藩の在方支配の下に置かれた[16][注釈 6]。
自分手政治は、当初は軍事的な意図が強かったと考えられる[18]。各領主には、禄高以外に町からの収益を得る実利があったとされ[13]、たとえば松崎町の領主であった和田氏は松崎町からの借財をしている[13][19]。
自分手政治が行われた町
米子では米子城が一国一城令のもとでも存続が認められた。倉吉・八橋・黒坂・浦富・松崎・船岡では陣屋が設けられ、自分手政治の拠点とされた。倉吉・八橋・黒坂・浦富はかつての城下町であり、城館跡などに陣屋が置かれた。
伯耆国
- 米子 - 荒尾氏(荒尾但馬家)
- 米子(現在の米子市)は西伯耆の中心地であり、江戸時代初期には中村一忠が伯耆一国を治め、その改易後は加藤貞泰が入った(米子藩)。元和3年(1617年)に伯耆を領した池田光政は筆頭家老の池田由之を米子に配した[20]。
- 寛永9年(1632年)に伯耆を領有した池田光仲もまた、筆頭家老の荒尾成利(1万5000石)を米子城城代とした。米子城代はその子孫(荒尾但馬家)によって受け継がれた。荒尾家家臣が町奉行に任じられ[3]、そのもとで町年寄・町代および各町に置かれた目代によって町政が行われた[20]。
- 倉吉 - 荒尾氏分家(荒尾志摩家)
- 倉吉(現在の倉吉市)は東伯耆の中心地であり、豊臣政権下では打吹城主の南条氏の城下町として整備された。池田光政の時代には伊木忠貞が打吹城に入った[注釈 7]。
- 池田光仲が入部すると、荒尾嵩就(荒尾成利の弟。1万2000石)が打吹城の麓に倉吉陣屋を構えた[8]。荒尾家家臣が任じられた町奉行のもと、町年寄・町目代が町会所で町政を執行した[8]。
- 八橋 - 津田氏
- 八橋(現在の東伯郡琴浦町八橋)は東西伯耆の中間に位置する要地で[21]、豊臣政権下では毛利家の山陰地方東端の城であった。中村家の時代には藩主中村一忠の叔父・中村一栄が3万石で入り、中村家改易後は八橋藩市橋家の城下町となり、池田光政の時代には家老の池田長明が当地に入った[22]。
- 池田光仲が入部すると、津田元匡(筑後守)が八橋に陣屋を置き、自分手政治を行った[22]。
- 松崎 - 和田氏
- 松崎(現在の東伯郡湯梨浜町松崎)は東郷湖南岸に位置し、水運と陸運の結節点に発展した市場町である。
- 池田光仲の入部後、家老の和田三正(飛騨守。荒尾成利・嵩就の実弟。4600石[23][注釈 8])が松崎に配置され、寛永11年(1634年)に松崎の南1kmの小鹿谷に陣屋を置いた[24][25][注釈 9]。陣屋周辺は「上り屋敷」と呼ばれ、小鹿谷村から分離されて松崎の一部と見なされた[27]。陣屋には和田氏家臣の堀・日比野の2家が「御家臣役」として常駐し[12]、その下に町奉行などの役職が置かれた[12]。松崎町の有力者から町年寄(大年寄とも)2名[28]、目代などの町役人が和田氏によって任命され、町役所で町政にあたった[28]。
- 黒坂 - 福田氏
- 黒坂(現在の日野郡日野町黒坂)は江戸時代初期に黒坂藩(鏡山城主)関家の城下町として築かれた町。池田光政の時代には池田長政(下総守)が入った。
- 池田光仲が入部すると、番頭筆頭である福田氏(3500石)の自分手政治が行われた[29]。福田氏は鏡山城の城館跡に黒坂陣屋を置いて[30]、山上氏を陣屋奉行として駐在させた[16]。
- 福田氏から苗字帯刀を許された町人の中から「目代」が選任されたが、その権限は村の庄屋と同程度で大きくはなく、軽微な犯罪の処理にとどまっていた[注釈 10]とされる[29]。
因幡国
- 浦富 - 鵜殿氏
- 浦富(浦住、浦留とも。現在の岩美郡岩美町浦富)は、豊臣政権下では巨濃郡1万石を支配した桐山城主垣屋氏の城下町として築かれた町である[31][32]。池田光政の時代には池田政虎(加賀守)が入った[24]。
- 池田光仲が入部すると、家老の鵜殿長次(大隅守。5000石)が知行地を与えられた[24][18]。天保13年(1842年)、鵜殿長発が「自分手政治」の許可を受けた[32]。鵜殿長発は浦住の地名を浦富に改め[注釈 11]、陣屋を置いて町方支配を行った[32]。
- 船岡 - 乾氏
- 船岡(現在の八頭郡八頭町船岡)は、八東川の支流である大江川と見槻川の合流点、高瀬舟の遡上上限に発展した市場町であり[33]、若桜街道の郡家(現在の八頭町郡家)と智頭街道の釜口宿(現在の鳥取市河原町釜口)とを結ぶ脇往還の宿場町である[34][35]。池田光政の時代には丹羽山城守が3200石で配された[33][注釈 12]。
- 池田光仲が入部すると、家老の乾兵部(3500石)を配置した[35]。乾氏は下船岡村に陣屋を置いて支配にあたった[35]。