黒坂藩
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立藩
関ヶ原の戦い後の慶長5年(1600年)、伯耆国には中村一忠が入国したが(米子藩)、慶長14年(1609年)に中村一忠が死去すると、中村家は改易された。
慶長15年(1610年)7月19日、中村家旧領が諸大名に分割されるが[2]、この際に伊勢亀山藩から関一政が2万石加増の上の5万石で入り、黒坂藩が立藩された[3][2][1][注釈 2]。一政は黒坂の地に鏡山城を築城し[4]、城下町(黒坂町)を建設した[5]。
なお、入封した一政はまず
慶長18年(1613年)5月27日付で、生山城主と伝えられる「関主馬正」が、下岩見村(現在の日野郡日南町下石見)の大蔵大明神の社領山林の保護を命じる文書が残る[9][10]。当時、近傍の大倉山で銀山開発が進められ、用材需要が高かったことを背景としている[10]。
慶長19年(1614年)の大坂冬の陣において、関一政は天満口に布陣した[11]。慶長20年/元和元年(1615年)の夏の陣でも天満口に布陣し、首級52を挙げる戦功を挙げた[11]。
廃藩
元和4年(1618年)7月、家中の紛争を理由として関一政は改易され、黒坂藩は廃藩となった[11][12]。『寛政重修諸家譜』(以下『寛政譜』)には「家中諍論のことにより領知を没収せらる」とある[11]。
『寛政譜』で確認できることがらでは、一政の弟である関盛吉(勝蔵)が「主馬首」を称して兄に仕えており[13]、盛吉の子の関氏盛(兵助、兵部少輔)が一政の養子になっている[3]。一政の改易の際、関氏盛に近江国蒲生郡内で5000石の知行が認められており[11][注釈 4]、関家は大身旗本として存続した。関一政は寛永2年(1625年)に没した[11]。また、関盛吉は一政の改易後には土井利勝のもとに身を寄せた[13][注釈 5]。『寛政譜』には一政・盛吉・氏盛の生年に関する情報がない。
廃藩時期・理由についての異説
『藩翰譜』では関一政が元和3年(1617年)頃に没し、関家は嗣子がないために嫡流が絶えた、と記している[16]。なお『藩翰譜』では、一政の弟である勝蔵(盛吉)の子「十兵衛尉」の子が兵部少輔氏盛とする[16]。『伯耆志』は元和3年(1617年)に関家が無嗣断絶したあと、黒坂は池田光政の所領となったと記す[17]。『日本歴史地名大系』も「黒坂村」の項目において、同地が元和3年(1617年)に池田光政領になったとする[18]。
池田光政は元和3年(1617年)3月6日に鳥取藩に移され、因幡・伯耆両国を治めるようになった[19]。池田光政の石高は32万石とされる[19][20]。『日本歴史地名大系』は、この32万石という数字は寛文4年(1664年)に池田光仲へ与えられた領知判物(寛文朱印留)に「如前々充行之訖」とあることから推定されているものであり、光政への領知目録そのものは伝えられていないため、確証はないという見解を示している[20]。
紛争についての伝承
作者不明[注釈 6]ながら江戸時代に成立した[4]「黒坂開元記」には、関長門守(一政)と甥の「主馬」が争ったために改易されたとの説を載せる[22]。同書によれば、主馬の亡父は長門守に対し、主馬が15歳になるまで後見して家督を譲るよう遺言したが、主馬が16歳になっても長門守は家督を譲らなかった[23]。不安を抱いた主馬は人数を集め、(領外から)帰城する長門守の一行を武装して待ち構えた[24]。長門守が「矢びつが峠」に到達して「西法寺坂」を見渡した際、待ち受ける軍兵に気付いて道を引き返しこととしたが、主馬がこれを追いかけ、両者は「板井原四十曲」で衝突した[24][注釈 7]。このことが幕府に聞こえ、長門守は家督を譲らなかったこと、主馬は幕府に訴え出ることなく私に騒乱を起こしたことがそれぞれ不届きであるとして改易された[24]。関家から没収された武具などは下菅村(日野郡日野町下菅)に設けられた闕所倉に収納された[24]。同書によれば関長門守の黒坂在城は5年で、そののち池田下総守(池田光政家臣)が黒坂城に入った[24]。幕府は、伊勢平氏の名門である関家が絶えることを惜しみ、一政の子である兵部氏盛に新たに5000石を与えたとする[21]。