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芭蕉布

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第二尚氏時代の縦縞四つ目模様の芭蕉布着物(東京国立博物館所蔵)
イトバショウ
首里城
芭蕉布の製造光景(戦前)

芭蕉布(ばしょうふ、琉球語:バサー[1])は、バショウ科の多年草イトバショウ(Musa liukiuensis)から採取した繊維を使って織られた布、織物。別名、蕉紗や蕉布とも呼ばれる[2]。

薄くて軽く張りのある感触から、汗をかきやすい高温多湿な南西諸島や日本本土の夏においても、肌にまとわりつきにくく[3]、涼感を得られる。このため着物、蚊帳、座布団など多岐にわたって利用されてきた。

日本では沖縄県や奄美群島の伝統織物となっている[4][5]。フィリピンのミンダナオ島ではアバカやイトバショウを原料とする伝統織物のティナラク(英語版)がある[6]。

日本

芭蕉布は沖縄県各地で生産されていたが、太平洋戦争後は主に大宜味村喜如嘉で生産されている[4]。1974年には喜如嘉の芭蕉布が国の重要無形文化財に指定されており[7]、鹿児島県の与論島でも芭蕉布製造技術が伝承されている[8]。

中国大陸

台湾

ベトナム

フィリピン

インド

歴史

日本周辺の芭蕉布は古くからの歴史があるとされ、琉球王国では王宮が管理する大規模な芭蕉園で芭蕉が生産されていた。15世紀に明への貿易品、江戸時代には琉球を支配した薩摩藩への貢納品にも含まれていた[3]。

庶民階級では芭蕉布作り最盛の明治期頃まで、「アタイ」と呼ばれる家庭菜園にイトバショウを植え、各家庭ごとに芭蕉布を生産していた[9]。その後、太平洋戦争末期以降には沖縄を占領したアメリカ軍によって「マラリアの原因である蚊の繁殖を防止する為」として多くのイトバショウが焼き払われてしまった[10]。

戦後、途絶えかけたいた芭蕉布を大宜味村喜如嘉の平良敏子が中心となり復興させ、のちに喜如嘉は「芭蕉布の里」として知られようになった[11]。

喜如嘉での製法

芭蕉布の製法は地域によって異なる[12]。喜如嘉では、3年目のイトバショウの葉鞘を裂き、繊維の質ごとに原皮を分けていく[13]。苧(ウー)と呼ばれるイトバショウの繊維は[14]、より内側であるほど柔らかいという性質がある[13]。外側から、ワーハ、ナハウ、ナハグ、キヤギと呼ばれ、繊維の柔らかさごとに使用用途も異なる。ワーハはテーブルクロスや袋などに、ナハウは帯、ナハグは着物に用いられ、キヤギは軟らかすぎて使用されない[15]。

これらの繊維を木灰汁で煮て、竹ばさみでしごき、繊維質をより分ける精練作業を行っていく[3]。イトバショウの糸は薄茶色で、鮮やかな色に染めるには漂白をする必要があり[16]、ソウシジュやリュウキュウアイで染色される[17]。これらを含めた23工程を経てようやく芭蕉布は完成する[15]。

一本のイトバショウから採取できる繊維は20グラム程で、一反の芭蕉布を織るために200本のイトバショウと2ヵ月の期間が必要となる[18][3]。

文化

  • 奄美群島では、芭蕉布が実用的に使用されていた頃に芭蕉が育つ芭蕉山(バシャやま)を結婚の持参金に当てることがあった。その為、持参金が必要な娘という意味から、「あまり美しくないこと」を「バシャ山」と呼ぶ方言が残っている[19]。

脚注・出典

関連項目

関連資料

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