宝永5年(1708年)、旗本永井尚附の三男として江戸に生まれる。享保17年(1732年)11月、倉吉荒尾分家、荒尾仙就の養子となり遺跡を相続する。同年12月、藩主池田吉泰に初めて拝謁する。
享保20年(1735年)閏3月、御職家老(執政家老)となる。同年11月、本家勝就の死去により、その家督を相続する。元文元年(1736年)5月、江戸にて御勝手御根取作廻に任じられる。12月、御職を辞職する。
寛保元年(1741年)2月、菩提寺の景福寺住職選定問題で閉門処分を受ける。景福寺住職選定は、先代住職の遺言をもって、当山開基の荒尾家が定める慣例であったが、先代住職・愚中の遺言を無視して、先々代萬林の弟子萬国と定めたことから、憤った愚中の弟子や仕えていた僧侶達が幕府に訴えた。同年6月、処分が解かれるも、再三にわたり隠居を願出て、寛保2年(1742年)2月、重病を理由として隠居が認められる。同年3月、分家の斯就が家督を相続する。甫就は通称を和泉から典厩に改め、さらに4月に内匠と改めた。
明和4年(1767年)9月2日、江戸で死去、享年58。