荒木氏綱
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天正5年(1577年)11月、丹波攻略を目指す明智光秀は多紀郡の東口に位置する籾井城・安口城やその他敵対する多紀郡内の城11か所を落とし、それらに拠っていた者たちは「荒木・波多野両城」に逃げ込んだという[7][8]。
天正6年(1578年)4月、明智光秀・滝川一益・丹羽長秀の軍勢が荒木城を包囲し、水の手が止められたことで城は落城した[9][4]。降伏後は明智光秀に従ったとみられるが[10]、氏綱は光秀からの仕官要請を断って、代わりに子の氏清[注釈 4]を出仕させたともされる[11]。
『本城惣右衛門覚書』によると、荒木城での戦いの際、荒木城には波多野秀治、赤井忠家、本城惣右衛門とその父が加勢していた[12]。また、明智光秀の配下となった氏綱は、天正7年(1579年)8月の丹波攻略終了までの間に大山城(丹波篠山市大山)に入っていた時期があったらしく、明智方の城を攻撃した惣右衛門らに対し、大山城より200から300の軍勢を送ったとされる[13]。
その後、天正10年(1582年)の本能寺の変に際して、『太閤記』には息子2人が明智秀満に従って大津で討死したとあり[10]、『武家事紀』には父子4人が瀬田で戦死したとある[14][10][注釈 5]。信憑性は落ちるが、『新撰豊臣実録』では氏綱は明智秀満の計らいで坂本城から脱出したとされており[10][11]、死亡時期については諸説ある。
氏綱の子・高兼は山崎の戦い等で戦死したが、その娘が秋田実季の正室・円光院に仕えて実季の子を産んだことで、高兼の息子・高次も秋田家に取り立てられた[1][15]。氏綱の来孫(高次の曽孫[16][17])で陸奥国三春藩の重臣である荒木高村の嫡男は、藩主・秋田輝季の養子となり、三春藩4代藩主・秋田頼季となった[1][18]。
脚注
注釈
- ↑ 三春町歴史民俗資料館 (2005, p. 20) には氏綱の名は記載されていないが、氏綱の子とされる[1]高兼の兄として山城守高則の名が記されている。
- ↑ 園部城(船井郡、現在の京都府南丹市)が荒木氏綱の居城とされることがあるが、明智光秀に味方した小畠氏の本拠・宍人の北東3.6kmに位置する園部城でなく、多紀郡(兵庫県丹波篠山市)に所在する荒木城が正しいと指摘される[2]。また、園部城が築城されたのは江戸時代に入ってからで、戦国時代にあったとされる「中世園部城」は後世軍記の創作であるとする説もある[5]。
- ↑ 氏綱以前の荒木氏には、波多野秀忠の重臣で山城守を名乗った荒木清長などがいる[6]。
- ↑ 山崎の戦いで戦死[11]。
- ↑ 「慶長17年1月11日志水宗加宛松井康之書簡」(松井康之が死の直前に井上市正(松井紀伊)の武功について書き留めた書状)にも、「彼さるかく(市正と共に武功を挙げた波々伯部家臣)ハ瀬田にて荒木一所二討死」と荒木某が瀬田で戦死した記述がある。引用元は『松井家先祖由来附』(『八代市史 近世史料編Ⅷ』八代市教育委員会、1999年、280-281頁)。
出典
- 1 2 3 “春陽の士6 荒木氏|Web資料館|三春町歴史民俗資料館”. 三春町ホームページ. 三春町 (2012年2月26日). 2021年10月24日閲覧。
- 1 2 高橋 2019, p. 78.
- ↑ 城郭談話会 編「荒木城」『図解近畿の城郭Ⅲ』戎光祥出版、2016年、422-425頁。ISBN 978-4-86403-193-6。
- 1 2 高橋 2019, pp. 78, 96.
- ↑ 吉田清監修『園部町史通史編 図説・園部の歴史』園部町・園部町教育委員会、2005年、108 - 109頁。
- ↑ 渡邊大門「波多野氏の丹波国支配をめぐって―天文・永禄年間を中心に―」『鷹陵史学』第37号、135-139頁、2011年。https://bukkyo.alma.exlibrisgroup.com/discovery/fulldisplay?context=L&vid=81BU_INST:Services&docid=alma991006875041106201。
- ↑ (天正5年)11月17日付明智光秀書状(「熊本三宅文書」、藤田達生・福島克彦編『明智光秀 史料で読む戦国史』〈八木書店、2015年、79頁〉所収)。
- ↑ 高橋 2019, pp. 76, 78.
- ↑ 『信長公記』。年未詳4月17日付丹羽長秀書状。
- 1 2 3 4 谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(第2)吉川弘文館、2010年、31頁。ISBN 978-4-642-01457-1。
- 1 2 3 阿部猛; 西村圭子 編『戦国人名事典コンパクト版』新人物往来社、1990年、58、60頁。ISBN 4-404-01752-9。
- ↑ 白峰 2020, p. 54.
- ↑ 白峰 2020, p. 58.
- ↑ 『武家事紀』巻第二十 続集(『武家事紀 中巻』山鹿素行先生全集刊行会、1916年、53頁)。
- ↑ 三春町 1984, pp. 102, 135–136.
- ↑ 三春町 編『三春町史 第8巻 近世資料1(資料編2)』三春町、1978年、133–134頁。
- ↑ 三春町歴史民俗資料館 2005, p. 20.
- ↑ 三春町 1984, pp. 104–107.
参考文献
- 白峰旬「「戦功覚書」としての『本城惣右衛門覚書』(その1)―本城惣右衛門は下級武士なのか―」『別府大学大学院紀要』第22号、2020年。doi:10.32289/gk02206。
- 高橋成計『明智光秀の城郭と合戦』戎光祥出版〈図説 日本の城郭シリーズ13〉、2019年。ISBN 978-4-86403-329-9。
- 三春町 編『三春町史 第2巻 近世(通史編2)』三春町、1984年。
- 三春町歴史民俗資料館 編『三春町合併五〇周年記念・平成一七年度春季特別展 春陽の士―奥州三春秋田家御家中―』三春町歴史民俗資料館、2005年。