紀元前607年、霊公が臣の趙穿によって弑されると、「盾、其の君を弑す」と時の上卿趙盾が、恰も霊公を弑逆したように記述した。趙盾は「自分が弑したのではない」と抗議したが、董狐はこれに対して趙盾が重臣ながら霊公を諫め切れずに逃亡し[2]、その霊公が殺されても賊の趙穿を誅するどころか公子黒臀(のちの成公)を擁立して新たな君主としたことを咎め、それゆえに弑逆の責任を趙盾に帰したのだと答えた[3]。このことから、権勢に屈することなく歴史の真実を記すことを董狐の筆と言うようになった[4]。
理非を明らかにした董狐の態度は後世大いに讃えられ、魯の儒者孔丘(孔子)は董狐を書法不隠(書法を隠さない、即ち事実を覆い隠さない)なる古の良吏だと称したほか[5]、南宋末の忠臣文天祥はその著『正気歌』の中で斉の太史(「崔杼弑君」を参照)・秦の張良・前漢の蘇武・後漢の厳顔・西晋の嵆紹らと並び董狐を称した[6]。