蕭宏

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蕭 宏(しょう こう、元徽元年(473年)- 普通7年4月17日[1]526年5月13日))は、南朝梁皇族。臨川靖恵王。は宣達。武帝蕭衍の弟にあたる。

蕭順之の六男として生まれた。母は陳氏(陳太妃)。成長すると身長は8尺で、鬚と眉が美しく、容姿や所作に見るべきものがあった。永明10年(492年)、の衛軍廬陵王法曹行参軍となり、太子舎人に転じた。建武2年(495年)、長兄の蕭懿梁州北魏軍の包囲を受けると、蕭宏は精兵1000人を率いて救援に向かったが、到着しないうちに北魏軍が撤退した。驃騎晋安王主簿に転じ、まもなく北中郎桂陽王功曹史となった。四兄の蕭暢には美名があり、始安王蕭遙光の礼遇を受けていた。

永元元年(499年)、蕭遙光が反乱を起こすと、蕭暢に東府へ入るよう迫ったので、蕭暢は禍をおそれて東昏侯蕭宝巻のもとにおもむいた。三兄の蕭衍は雍州におり、弟たちに禍が及ぶことを心配して、「六弟(蕭宏)は事理に明るいので、必ず先に皇帝側に帰させるように」と七弟の蕭偉に言いふくめた。知らせが届くと、蕭衍の考え通りに実行された。

中興元年(501年)、蕭衍が起兵して東下すると、蕭宏は新林で迎え、輔国将軍の位を受けた。建康が平定されると、西中郎将・中護軍に転じ、領石頭戍事をつとめた。天監元年(502年)、梁の臨川郡王に封じられた。まもなく使持節・散騎常侍・都督揚南徐二州諸軍事・後将軍揚州刺史となった。天監3年(504年)、侍中の位を加えられ、号は中軍将軍に進んだ。

天監4年(505年)、蕭衍が北伐を決めると、蕭宏は都督南北兗北徐青冀豫司霍八州北討諸軍事となった。梁の北伐軍が洛口に到着すると、蕭宏は前軍で梁城を落とし、北魏の将の晁清を斬った。北伐が長期戦となると、撤退の勅命が出された。天監6年(507年)夏、侍中のまま驃騎将軍・開府儀同三司の位を受けた。その年のうちに司徒に転じ、太子太傅を兼ねた。天監8年(509年)夏、侍中のまま使持節・都督揚南徐二州諸軍事・司空・揚州刺史となった。天監11年(512年)冬、開府儀同三司・侍中のまま、驃騎大将軍に左遷された。まもなく侍中・驃騎大将軍のまま、使持節・都督揚南徐二州諸軍事・揚州刺史に任じられた。天監12年(513年)、使持節・侍中・都督・揚州刺史・驃騎大将軍のまま司空に転じた。

天監15年(516年)春、生母の陳太妃が病に伏せると、同母弟の南平王蕭偉とともに看病した。太妃が死去すると、5日のあいだ水さえ口に入れなかったので、蕭衍が自ら訪れてつとめてなぐさめた。驃騎大将軍・使持節・都督・中書監に任じられたが、固辞して受けなかった。

天監17年(518年)夏、侍中・中軍将軍・行司徒に左遷された。その年の冬、侍中・中書監・司徒に転じた。普通元年(520年)、使持節・都督揚南徐二州諸軍事・太尉・侍中・揚州刺史に転じた。普通2年(521年)、本官のまま起部尚書を兼ねる内示があったが、沙汰やみとなった。普通7年(526年)3月、蕭衍に病状を報告すると、余官はもとのまま揚州刺史の任を解かれた。4月乙酉、死去した。享年は54。臨川王のまま仮黄鉞・大将軍・侍中・揚州牧の位を追贈された。は靖恵といった。

子女

脚注

伝記資料

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