薛大鼎
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父が隋の漢王楊諒の乱に加担して処刑されたが、大鼎は幼年だったため死罪を免れ、辰州に配流された。のちに郷里に帰ることができた。大業13年(617年)、李淵が起兵すると、大鼎は龍門県で李淵に面会し、河東を攻撃しないよう求めた。李淵はこれに肯いたが、諸将が河東を先に攻撃するよう意見したため、衆議に従って河東攻撃は実行された。大鼎は大将軍府察非掾に任じられた[2][1]。
大鼎は山南道副大使として出向し、屯田を開いて糧食を備蓄した。武徳6年(623年)、趙郡王李孝恭が輔公祏を討つと、大鼎は饒州道軍師となり、兵を率いて彭蠡湖を渡り、功により江州刺史となった[1]。
貞観年間、大鼎は鴻臚寺少卿・滄州刺史に転じた。長蘆河・漳河・衛河を浚渫し、洪水の被害をなくした。ときに瀛州刺史の賈敦頤や曹州刺史の鄭徳本とともに善政の評判が高く、河北道では「鐺脚刺史」と称された[3][4]。
永徽4年(653年)、銀青光禄大夫の位を受け、荊州大都督府長史を代行した。永徽5年(654年)、死去した。諡は恭といった[5][6]。