薛季昶
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武周のとき、封事を上書して、監察御史に抜擢された。官歴を重ねて、平遥県尉に左遷されたが、再び監察御史となった。たびたび刑事事件を取り調べて武則天の意にかない、給事中となった。万歳通天元年(696年)、夏官郎中の侯味虚が兵を率いて契丹を討って敗れると、「賊徒の勢力は盛んで、蛇や虎がその軍を先導している」と言い訳した。季昶が武則天の命を受けて、河北道按察使となり、その事情を調査することとなった。季昶は着任すると、侯味虚を斬って奏聞した。さらに藁城県尉の呉沢が貪婪暴虐をほしいままにしていたため、季昶はこれを杖殺した。また季昶は汴州の孝女の李氏を顕彰して、村里の入り口の門に掲示した。御史中丞に進んだが、事件に連座して左遷された[1][2]。
久視元年(700年)、季昶は定州刺史から雍州長史となった。まもなく文昌左丞(尚書左丞)に転じ、魏州刺史と陝州刺史を歴任した。長安4年(704年)、洛州長史に転じた。任地ではいずれも厳粛な統治をおこなった[1][2]。
神龍元年(705年)、季昶は張易之兄弟の殺害に参与した功績により、銀青光禄大夫の位を加えられ、戸部侍郎に任じられた。ときに季昶は勢いに乗じて武三思を殺害するよう敬暉らに勧めたが。敬暉らは聞き入れなかった。神龍2年(706年)、敬暉らが失脚すると、季昶は桂州都督として出され、さらに儋州司馬に左遷された。かねてから季昶は昭州の首領の周慶立や広州司馬の光楚客と険悪であった。儋州に赴くにあたり、季昶は周慶立に殺されるのを恐れて、広州に行こうとしたが、光楚客に憎まれ、自ら棺を作り、毒薬を仰いで死去した。景雲元年(710年)、睿宗が復位すると、季昶は左御史大夫の位を追贈された[3][2]。