薛放

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薛 放(せつ ほう、生年不詳 - 825年)は、唐代官僚本貫蒲州宝鼎県[1][2]

薛戎の末弟にあたる。その性格は端正で温和かつ寡黙であり、物事の良し悪しを意にかけなかった。薛放は進士に及第し、節度使の補佐役を歴任した。大理寺評事に試用され、右拾遺に抜擢された。右補闕に転じ、水部員外郎・兵部員外郎を歴任し、兵部郎中に進んだ[3][4]

穆宗皇太子のとき、書物を好んで経書の解釈を教える人物を求めていたことから、薛放は皇太子侍読に選抜された。穆宗が即位すると、薛放は穆宗の側近にあって、朝政の機密に参与した。工部侍郎・集賢院学士となった。集賢院学士のまま刑部侍郎に転じた[5][4]

穆宗が経書や史書を学ぶときに何を優先すべきかと諮問すると、薛放は『論語』は六経の精華であり、『孝経』は人倫の本であり、この両書をまず学ぶよう言上した。薛放は兵部侍郎・礼部尚書を歴任し、判集賢院事をつとめた。のちに江南西道観察使として出向した。宝暦元年(825年)2月27日、死去した。は簡といった[5][6]

脚注

伝記資料

参考文献

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