薛戎
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湖州長史の薛同と陸景融(陸元方の子)の娘のあいだの子として生まれた。若くして学問があり、名声を求めず、常州の陽羡山に寓居した。四十数歳になっても、官に仕えようとしなかった。江南西道観察使の李衡が従事として召し出そうとして、使者が三度往来してようやく薛戎は任用に応じた。もと宰相の斉映が李衡に代わって江南西道観察使となると、薛戎は従事の職に留まらず、陽羡山に帰った。福建観察使の柳冕に求められて従事となり、数カ月後に殿中侍御史に転じた。泉州で刺史が欠員になると、薛戎は知泉州事をつとめた[3][2]。
姚南仲が鄭滑節度使となると、従事の馬摠が監軍使の薛盈珍に誣告されて、泉州別駕に左遷された。柳冕は宦官の勢力におもねろうと、薛戎に馬摠を取り調べさせて処罰しようとした。薛戎は馬摠の無罪を看取すると、柳冕の意に従わなかった。柳冕は薛戎を罪に落として仏寺に監禁し、あらゆる辱めを与えたが、薛戎は態度を変えず、動揺を見せなかった。杜佑が淮南節度使となると、薛戎の冤罪を知って、柳冕を譴責した。薛戎は辞職して江湖のあいだに寓居した[4][5]。
のちに閻済美が福建観察使となると、薛戎はその下で副使をつとめた。さらに閻済美が浙江東道に移駐するのに従い、侍御史に転じた。元和4年(809年)、刑部員外郎に任じられた。河南県令として出向し、衢州・湖州・常州の刺史を歴任し、越州刺史・浙江東道都団練観察等使に転じ、御史中丞を兼ねた。いずれも善政の風聞があった。数年後、病のため官を辞した。長慶元年(821年)9月27日、死去した。享年は75。左散騎常侍の位を追贈された[4][6]。
家族
- 曾祖父:薛宝胤(豳州刺史)
- 伯祖父:薛続(富平県令)
- 伯祖父:薛純(秦州都督)
- 伯祖父:薛絢(好畤県令)
- 伯祖父:薛絵(金州刺史)
- 伯祖父:薛紘(蒲州刺史)
- 伯祖父:薛縉(廬州刺史)
- 祖父:薛縑(河南県令)
- 父:薛同(湖州長史)
- 兄:薛乂(温州刺史)
- 兄:薛丹(太子賓客)
- 弟:薛擁(侍御史)
- 弟:薛放(礼部尚書)