藤原季通 From Wikipedia, the free encyclopedia 時代 平安時代後期生誕 不詳死没 不詳官位 正四位上、備後守 凡例藤原季通時代 平安時代後期生誕 不詳死没 不詳官位 正四位上、備後守主君 白河上皇→堀河天皇→鳥羽天皇→崇徳天皇→近衛天皇氏族 藤原北家中御門流父母 父:藤原宗通、母:藤原顕季の娘兄弟 宗子、信通、伊通、季通、成通、重通、定通、良延、宗海、伊覚子 伊長(少納言)テンプレートを表示 藤原 季通(ふじわら の すえみち)は、平安時代後期の公家・歌人。藤原北家中御門流、権大納言・藤原宗通の三男。官位は正四位上・備後守。 和歌のほか、琵琶・笛・箏などの管弦に巧みであり、白河上皇の信任が篤かった。しかし、若年時に箏の弟子である藤原璋子(鳥羽天皇中宮)と密通したとの嫌疑を受け、その影響から官途の面では不遇であった。 左近衛少将を経て、白河院政期の中期から後期にかけて、美濃守・備後守と受領を歴任した。鳥羽院政期の康治元年(1142年)弟の成通や重通(いずれも権中納言)より官位が余りにも劣っていたことを内大臣・藤原頼長に憐れまれ、その計らいによって正四位下に叙せられる。久安5年(1149年)正四位上に至るが、備後守を去ってからは長く散位であったらしく[1]、結局公卿昇進は果たせなかった。 保元3年(1158年)頃までは生存していたというが、その没年も明らかではない。 人物 幼少の頃、兄・伊通と共に伯母の藤原全子の許を訪れた際、全子は「兄の方は将来大臣になるが、弟は凡愚で終わるだろう」と評したという(『古事談』)。果たして、政治面では生涯を通して非才・不遇であり、専ら文化・芸術面でのみ名を遺した人物となった。 歌人としては永久4年(1116年)の鳥羽殿北面歌合に出詠。『千載和歌集』などの勅撰和歌集に16首が採録されているほか[2]、家集として『季通朝臣集』がある。 官歴 時期不詳:左近衛少将[3] 天仁2年(1109年) 9月6日:見美濃守[4] 天永3年(1112年) 正月27日:備後守[5] 元永2年(1119年) 7月:見備後守[6] 康治元年(1142年) 正月5日:正四位下[7] 久安5年(1149年) 3月20日:正四位上[8] 系譜 『尊卑分脈』による。 父:藤原宗通 母:藤原顕季の娘 生母不詳の子女 男子:藤原伊長 - 少納言 男子:任慶 男子:行忠 男子:範源 男子:智秀 子の伊長は人相見であり相少納言と呼ばれた。源頼政の依頼で以仁王の人相を占って、令旨を出すように促したという(『平家物語』)。 脚注 ↑ 久安百首(1150年成立)でも「前備後守」の肩書であった。 ↑ 『勅撰作者部類』 ↑ 『尊卑分脈』 ↑ 『殿暦』 ↑ 『中右記』 ↑ 『内大臣殿歌合』 ↑ 『台記』 ↑ 『本朝世紀』 参考文献 『尊卑分脈 第一篇』吉川弘文館、1987年 宮崎康充編『国司補任 第五』続群書類従完成会、1990年 Related Articles