久安百首
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出詠歌人
崇徳院は生涯に少なくとも3度百首歌を主催したが、全容が明らかなのは「久安百首」のみである。初度百首は在位中〔永治元年(1141年)10月以前〕に「堀河百首」題で召したもので、藤原教長や源行宗の家集に片鱗が見える。譲位後に召した第二度百首が「久安百首」であり[4]、第三度百首(句題百首)は藤原教長・藤原公重ら近臣の家集に残る[5]。
応製百首の先例である「堀河百首」が第五勅撰集『金葉和歌集』撰進の資料であったように、「久安百首」も第六勅撰集『詞花和歌集』の資料として召されたと考えられている[1]。ただ、康治年間(1142年~1144年)に崇徳院から題が下され、久安6年に詠進歌が出揃ったものの、『詞花集』奏覧は翌仁平元年(1151年)であり、『詞花集』撰者の藤原顕輔が「久安百首」を十分検討することは困難であったと考えられる[1]。また、顕輔は当代歌人の歌を原則1首しか採らなかった[6]ため、「久安百首」から『詞花集』に入集したのはわずか5首となった[1]。
また、四位に叙された藤原俊成[7]のもとへ、「久安百首」を部類して奉るようにという崇徳院の命が下った。教長、顕輔など「数輩之上臈」[8]を差し置いての抜擢であり、俊成は仁平3年(1153年)暮秋[9]に崇徳院に部類本を奏覧したが、同年1月に没した平忠盛の替わりに藤原隆季の歌を切り入れるよう院の仰せがあり、初度の奏覧本は返却された。俊成が隆季の追進した百首を継ぎ入れ部類しなおしている間に、保元元年(1156年)保元の乱が勃発し、崇徳院は讃岐に配流され、長寛2年(1164年)に崩御したため、再度奏覧する機会は失われた[10]。
部類から30年余りの時を経た文治4年(1188年)、俊成が撰進した第七勅撰集『千載和歌集』には「久安百首」から126首[11]が入集した。
崇徳院、藤原公能(徳大寺公能)、藤原教長、藤原顕輔、藤原季通、藤原隆季、藤原親隆、藤原実清、藤原顕広(俊成)、藤原清輔、待賢門院堀河、上西門院兵衛、待賢門院安芸(郁芳門院安芸)、故左大臣家小大進(花薗左大臣家小大進)の14名である。
給題当初は、崇徳院、藤原公行(三条公行)、藤原公能、源行宗、藤原教長、藤原顕輔、平忠盛、藤原親隆、藤原顕広、僧都覚雅、待賢門院堀河、上西門院兵衛、待賢門院安芸(郁芳門院安芸)、故左大臣家小大進(花薗左大臣家小大進)の14名であったが、康治2年(1143年)に源行宗、久安2年(1146年)に覚雅 、久安4年(1148年)に藤原公行が没したため、替わって藤原季通、藤原清輔、藤原実清が加えられた。その後、仁平3年(1153年)に平忠盛が没したため、藤原隆季が追補された。
題
崇徳院からの給題は、春20首、夏10首、秋20首、冬10首、恋歌20首、雑歌20首(神祇2首・慶賀2首・釈教2首・無常2首・離別1首・羇旅5首・物名2首・短歌1首)
部類本
| 巻 | 巻名 | 歌題 | 歌数 | |
|---|---|---|---|---|
| 巻第一 | 春歌上 | 立春、早春、子日、若菜、鶯、霞、残雪、梅花、早蕨、柳、帰雁 | 134首 | 280首 |
| 巻第二 | 春歌下 | 桜、春歌、春雨、春田、春駒、呼子鳥、三月三日、すみれ、つつじ、山吹、かきつばた、藤花、暮花、暮春 | 146首 | |
| 巻第三 | 夏歌 | 首夏、初夏、卯花、あふひ、牡丹、郭公、菖蒲、五日、五月雨、花橘、早苗、郭公、くゐな、ほたる、ともし、 | 140首 | |
| 巻第四 | 秋歌上 | 立秋、早秋、七夕、萩、女郎花、荻、蘭、薄、刈萱、秋歌、月 | 146首 | 280首 |
| 巻第五 | 秋歌下 | こまむかへ、初雁、露、霧、あさがほ、鹿、秋田、虫、きく、十三夜、月歌、秋歌、紅葉、九月尽 | 134首 | |
| 巻第六 | 冬歌 | 初冬、時雨、落葉、しも、冬歌、あられ、こほり、水鳥、千鳥、ゆき、冬歌、神楽、すみがま、うづみ火、冬歌、歳暮 | 140首 | |
| 巻第七 | 恋歌上 | (小題はなく恋の進行順などで並べられている) | 142首 | 279首[14] |
| 巻第八 | 恋歌下 | 137首 | ||
| 巻第九 | 雑歌上 | 神祇歌、慶賀歌、釈教歌、無常歌、離別歌 | 168首 | 280首 |
| 巻第十 | 雑歌下 | 羇旅歌、物名歌、短歌 | 112首 | |