藤原伊通

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時代 平安時代後期
生誕 寛治7年(1093年
別名 九条大相国、大宮大相国
 
藤原 伊通
藤原伊通像(三の丸尚蔵館蔵『天子摂関御影』より)
時代 平安時代後期
生誕 寛治7年(1093年
死没 長寛3年2月15日1165年3月28日
別名 九条大相国、大宮大相国
官位 正二位太政大臣
主君 堀河天皇鳥羽天皇崇徳天皇近衛天皇後白河天皇二条天皇
氏族 藤原北家中御門流
父母 父:藤原宗通、母:藤原顕季の娘
兄弟 宗子信通伊通季通成通重通定通、良延、宗海、伊覚
正室:藤原立子(藤原顕隆の娘)
藤原定実の娘
為通伊実呈子
特記
事項
散三位前参議、右兵衛督、中宮権大夫任[権]中納言例
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藤原 伊通(ふじわら の これみち)は、平安時代後期の公家藤原北家中御門流権大納言藤原宗通の次男。官位正二位太政大臣。九条に邸宅を構えていたことから九条大相国(くじょう だいしょうこく)あるいは大宮大相国(おおみや だいしょうこく)と号した。

白河院政期中期の康和2年(1100年叙爵し、長治2年(1105年侍従三河守任官。天永2年(1111年左近衛少将に任ぜられるが、永久3年(1115年権右中弁に遷る。その後は、永久4年(1116年従四位下次いで従四位上、元永元年(1118年正四位下保安元年(1120年蔵人頭(頭弁)と順調に昇進し、保安3年(1122年参議として公卿に列した。

議政官の傍らで、右兵衛督を兼帯したほか、鳥羽院政期初頭の大治5年(1130年)2月に関白藤原忠通の娘である藤原聖子崇徳天皇の中宮に立てられると、伊通は中宮権大夫も兼ねた。またこの間の大治4年(1129年従三位に叙せられている。

しかし、同年10月に位階は上位(正三位)ながら後任参議の藤原長実が先に権中納言に昇進したことを不満として籠居する。なお、藤原長実への不満だけではなく、公事の参加が乏しい上臈参議(源師頼源師時)が同時に権中納言に進んだことも一因とする見方もある。伊通は同年4月の行幸の勧賞で位階を進められる筈が、上臈参議である師時の位階を越すことが問題視されて見送られた経緯があったにもかかわらず、半年後には既に昇進が確定していた藤原宗輔も含めた自分以外の参議4名全員が同時に権中納言に任じられたことの憤りが籠居の行動を取らせたとする(曽我良成)[1]。翌天承元年(1131年)に官職(参議・中宮権大夫・右兵衛督)を止められてしまう。これに憤激した伊通は出仕に使う檳榔毛の車を焼き、神崎遊女のもとに出入りするといった行動に出たという(『古事談』『今鏡』)。

長承2年(1133年)伊通は朝政に復帰し権中納言に進む。当時、長男の為通が崇徳天皇の寵臣であり、崇徳天皇から鳥羽上皇への働きかけにより権中納言への昇進が実現した(『今鏡』)。散位の三位が参議に還任されることなく、いきなり権中納言に任ぜられたのは異例のことであり、源師時から批判を受けている(『長秋記』)[2]

その後、伊通は関白・藤原忠通に接近し、久安6年(1150年)に娘の呈子を忠通の養女として近衛天皇に入内させる。さらに近衛天皇の母である藤原得子(美福門院)や忠通らの信頼を得て発言力を強め、保元元年(1156年保元の乱後の人事異動により内大臣に昇進すると、翌保元2年(1157年左大臣に任ぜられた。二条朝永暦元年(1160年)従兄弟の藤原宗輔の後を受けて太政大臣に昇進、以後没するまで5年に渡ってこれに在任した。伊通は朝政のあり方を説いた『大槐秘抄』を著して二条天皇に献じ、これを受けた天皇も関白の藤原忠通と共に伊通を重用し、親政指向を強めて後白河院と対立した。

長寛3年(1165年)2月初旬に病気により辞職の上表を行い、同月11日に出家、15日に薨御。享年73。

人物

鳥羽院の寵姫であった美福門院は母方の従姉妹[3]、関白・藤原忠通は妹の婿という関係にあり、伊通の異例の昇進の背景にはこうした閨閥の力も無縁ではなかった。一方で、自身の豊かな才覚による政治力もあり、また詩歌・管絃・書にも通じた文化人で、機知に富んだ話術で常に宮中の人々を笑いを誘ったことなどが伝わる。さまざまな意味で同時代における第一級の宮廷人だった。また、先例を重んじつつも、道理に合わないと考えればそれに拘らない柔軟性も有していた。

また、激しい性格で毒舌家でもあった。平治元年(1159年)の平治の乱後に藤原信頼が勝手に行った論功行賞で武士を厚遇するのを見て、「人を多く殺した者が恩賞に与るのであれば、どうして三条殿の井戸に官位が与えられないのか」と公言、乱の首謀者である信頼方の軍勢が三条殿を焼き討ちした際に多くの女官が井戸に飛び込んで死亡したことを引き合いに出して、信頼のことを痛烈に批判した(『今鏡』『平治物語』)。また、『大槐秘抄』では旧儀の復興を説く一方で、貴族や寺社に与えられるべき封戸の制度が廃れたために代わりになるものとして荘園知行国の制度が存在していることを説いて荘園整理令を批判している。

日記に『九条相国記』(『権大納言伊通卿記』)がある。伏見宮御記録所収『白檀御仏御自筆法華経供養部類記』『本朝世紀』『御遊抄』などに、大治5年(1125年)、保延元年(1135年)、2年、久安2年(1145年)、3年、4年、5年の記文がある。また、『九条相国除目抄』という除目に関する全8巻の書物を著していることが知られている(『本朝書籍目録』)[4]。同書は現存していないが、『魚魯愚鈔』『除目抄』などに見える「九抄」「要抄」と記されたものがそれであると考えられている[5]

逸話

『前賢故実』
  • 父である藤原宗通が死去する直前、「所領は一旦妻(伊通ら兄弟の母)に与え、妻が亡くなった後に子供達に分け与える」として、将来子供たちが受け取るべき土地を予め指定してから亡くなった。ところが、兄弟の1人である藤原信通が母に先だって病死した。そのため、母は死の直前に遺された他の息子で信通が与えられる筈だった所領を分けるように指示した。だが、伊通だけは「それでは父との約束に反することになる」と述べて亡兄の息子にその分を与えた。人々は彼を孝友廉直であると評した(『台記』久安6年11月30日条)。
  • 大治4年(1129年)の除目において、中原師遠を壱岐守と周防権守に二重に任じる誤りがあったことが翌年になって発覚し、秋の除目にて取消の手続をしようとしたところ、師遠が病死してしまった。そのため、その扱いについて議論になった。その際に大外記は「(二重となってしまった)周防権守を取り消すのが妥当である」と述べたが、多くの貴族が死者に関わりたくないとそのまま空席にすればいいと主張した。だが、伊通のみは大外記が言う通りで公式記録にあってはならない記録が残ってしまうから、先例が無くても取り消すべきであると最後まで主張したが通らなかった(『中右記』大治5年9月28日条)。この件や『九条相国除目抄』の編纂などによって伊通が外記の業務に理解を示したことは外記局から長く感謝され、50年余り後に大外記の清原頼業九条兼実に対して外記の立て直しに尽くした人物として藤原頼長信西と並んで伊通の名前を挙げている(『玉葉』元暦2年4月29日条)。
  • 伊通は自分が疑問に思ったこと、不審に思ったことは必ず、上臈や経験者にその場で質問して納得しようとする性格であった。その一方で、そそっかしい側面もあり、勘違いによる失敗談も伝えられている(『古今著聞集』巻第3「公事」97など)[6]
  • 『古今著聞集』によれば、伊通は優れた人相見でもあり、藤原頼長も彼に人相を見てもらったとされる。伊通がまだ位が低かった頃、内裏の后町の井戸を覗き込んだところ、自身に大臣の相が現れているのが見えた。喜んで邸に帰り鏡で自分の顔を見てみたが、その相は見えない。不思議に思い再び内裏に参上して井戸を覗くと、やはり大臣の相が見える。落ち着いて考えた伊通は「鏡で近く見るとその相がなく、井戸で遠く見るとその相があるということは、自分が大臣になるのはずっと先のことであろう。しかし最後には嘘にならず実現するはずだ」と悟った。はたしてその予見通り、伊通はずっと時が経ってから、68歳という高齢で太政大臣に就任した[7]

官歴

注記のないものは『公卿補任』による。

藤原伊通の官歴表
和暦(西暦) 月日(旧暦) 年齢 [注 1] 事項
寛治7年(1093年 月日不詳 1歳 誕生
康和2年(1100年 1月5日 8歳 叙爵(斎宮給)
康和5年(1103年 3月15日 11歳 従五位上に昇叙(行幸高陽院賞)
長治2年(1105年 1月27日 13歳 三河守に任ず(院分判官代)
4月10日 侍従に任ず、三河守如元
嘉承元年(1106年 1月7日 14歳 正五位下に昇叙(中宮行啓右衛門督藤原宗通賞)
12月5日 備中守
天永元年(1110年 10月20日 18歳 備中守に重任
天永2年(1111年 1月23日 19歳 左近衛少将に任ず
1月27日 右近衛少将に転任
永久2年(1114年 1月 22歳 備中守を辞す
永久3年(1115年 8月13日 23歳 権右中弁に任ず
永久4年(1116年 1月5日 24歳 従四位下に昇叙(弁労)
12月22日 従四位上に昇叙(院去天永2年御給)
元永元年(1118年 12月17日 26歳 正四位下に昇叙(最勝寺供養行事賞)
保安元年(1120年 1月13日 28歳 蔵人頭(頭弁)に補す
6月 白河院別当に見ゆ[8]
7月13日 服解(父の喪)
保安2年(1121年 6月27日 29歳 復任
保安3年(1122年 1月23日 30歳 参議に補任、権右中弁を辞す
12月21日 右兵衛督
保安4年(1123年 1月22日 31歳 美作権守
1月27日 右兵衛督を辞す
5月 右兵衛督如元
大治3年(1128年 1月24日 36歳 兼備中権守
大治4年(1129年 1月7日 37歳 従三位に叙す
大治5年(1130年 2月21日 38歳 中宮権大夫(中宮・藤原聖子
天承元年(1131年 12月5日 39歳 三職(中宮権大夫・参議・備中権守)を止む
長承2年(1133年 9月21日 41歳 権中納言に任ず
長承4年(1135年 1月28日 43歳 正三位に昇叙(三木時行幸松尾北野行事賞)
保延2年(1136年 12月9日 44歳 中納言に転任
12月21日 右衛門督検非違使別当
保延3年(1137年 12月16日 45歳 右衛門督および検非違使別当を辞す
保延4年(1138年 1月5日 46歳 従二位に昇叙(春日行幸行事賞)
永治元年(1141年 12月2日 49歳 権大納言に転任
康治2年(1143年 1月3日 51歳 正二位に昇叙(朝覲行幸、院分、別当)
久安6年(1150年 8月21日 58歳 大納言に転任
保元元年(1156年 9月13日 64歳 内大臣に転任
保元2年(1157年 8月19日 65歳 左大臣に転任
永暦元年(1160年 8月11日 68歳 太政大臣に転任
長寛3年(1165年 2月3日 73歳 病により上表して太政大臣を辞す
2月11日 出家
2月15日 薨去

系譜

脚注

参考文献

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