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藤原定頼

平安時代中期の公卿・歌人。藤原北家小野宮流。藤原公任の長男。正二位・権中納言。中古三十六歌仙の一人。子に経源。 From Wikipedia, the free encyclopedia

藤原 定頼(ふじわら の さだより)は、平安時代中期の公卿・歌人。藤原北家小野宮流、権大納言・藤原公任の長男。官位は正二位・権中納言。中古三十六歌仙の一人。小倉百人一首では権中納言定頼。

時代 平安時代中期
生誕 長徳元年(995年)
別名 号:四条中納言
概要 凡例藤原 定頼, 時代 ...
 
藤原 定頼
中納言定頼(『小倉百人一首』)
時代 平安時代中期
生誕 長徳元年(995年)
死没 寛徳2年1月19日(1045年2月8日)
別名 号:四条中納言
官位 正二位、権中納言
主君 一条天皇→三条天皇→後一条天皇→後朱雀天皇
氏族 藤原北家小野宮流
父母 父:藤原公任、母:昭平親王の娘
兄弟 定頼、良海、任入、藤原教通正室、藤原遵子養女
妻 正室:源済政の娘
子 経家、藤原信長室、経源、敦平親王妃
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経歴

寛弘4年(1007年)末に元服して従五位下に叙爵し、年が明けて侍従に任ぜられる。寛弘6年(1009年)右近衛少将に任ぜられると、少将を務める傍らで、寛弘7年(1010年)正五位下、寛弘9年(1012年)従四位下と昇進する。

長和3年(1014年)に右中弁と文官に転じると、長和6年(1017年)正四位下・蔵人頭に叙任される。在任中の寛仁2年(1018年)宮中で群飲中に右近衛少将・藤原兼房から暴行を受ける事件に巻き込まれている[1]。一方で、寛仁3年(1019年)弾正弼・源顕定を嘲笑した際、摂政・藤原頼通の発言を引き合いに出したため、頼通の勘気を蒙りこの年の後半謹慎させられている。なお、この事件の背景には藤原頼通・教通の兄弟の対立も原因であったという[2]。同年末には謹慎が解け、同じ蔵人頭の藤原経通と参議任官を激しく争うが、経通の後塵を拝して左中弁への昇進に留まった[3]。この人事に対して定頼は失望し、除目後初めての結政に遅参している[4]。翌寛仁4年(1020年)参議兼右大弁に任ぜられて公卿に列す。

治安2年(1022年)従三位、治安3年(1023年)左大弁兼帯を経て、長元2年(1029年)権中納言に任ぜられる。長元3年(1030年)清涼殿での宴において、御前作文の探韻を命じられた際、不正を行っていることが発覚した上に、さらにそれを誤魔化そうとしたため、関白・藤原頼通から「不正直」と批判されている[5]。権中納言昇進後は、長暦2年(1038年)従二位、長久3年(1042年)正二位と昇叙はなされるが、10年以上に亘って兼官なしに据え置かれた。この状況の中、長暦3年(1039年)藤原頼通の反対を押し切って、内大臣・藤原教通が娘の生子を後朱雀天皇の後宮に入内させた際には、他の殿上人らが頼通に遠慮した結果、入内に参列する殿上人は僅か5名(内公卿は2名)であったが、定頼は権中納言・藤原経通と共に参列に参加している[6]。

長久4年(1043年)兵部卿を兼ねるが、翌長久5年(1044年)6月9日に病のため出家。寛徳2年(1045年)1月19日薨去。享年51。

人物

少し軽薄な性格であったようで、小式部内侍にやり込められた逸話が残っている。相模や大弐三位などと関係を持った。音楽・読経・書の名手であり、容姿も優れていたという。

長元5年(1032年)の『上東門院彰子菊合』、同8年(1035年)の『関白左大臣頼通歌合』などに出詠。『後拾遺和歌集』以下の勅撰和歌集に45首が入集。家集に『定頼集』がある。

新造内裏の内額揮毫や後朱雀天皇の大嘗会における悠紀主基屏風の色紙形清書役を務めた[7]。書の腕前は、父・公任に劣ったが、大家であった藤原行成没後という時勢に恵まれ、各種の書役を務め賞に与ったという[8]。

逸話

大堰川

一条天皇の大堰川行幸のお供で和歌を詠んだときのこと、父の公任も同行していて定頼の歌の出来映えを心配していた。すると定頼の番になり上の句を「水もなく見え渡るかな大堰川」と読み始めた。満々たる大堰川を前にして「水もなく」とはどういうつもりだ、何という不調法な、と公任が思っていると「峰の紅葉は雨と降れども」と朗々と下の句を詠み上げた。そのあまりの見事さに、公任も嬉しさをこらえきれず、思わず会心の笑みを漏らしたという[9]。

和泉式部・小式部内侍との交流

定頼は和泉式部およびその娘小式部内侍との交流を伝える歌や説話を残している。

和泉式部が夫藤原保昌に従って丹後国へ下向するか思いわずらっていた際、定頼は、

行き行かず 聞かまほしきを いづかたに
踏みさだむらん 足占の山

と詠んで送っている。『続古今和歌集』では「藤原保昌朝臣、丹後に成りて下りけるに、和泉式部思ひわづらふと聞きて遣はしける」と詞書され、丹後へ行くか京に留まるか決めかねていた和泉式部を、「足占」と「踏みさだむ」を用いて戯れた歌とみられる[10]。久下裕利は、『定頼集』にみえるこの歌と、和泉式部が丹後下向に際して都に残る小式部内侍を案じたこととが、後世の小式部内侍「大江山」歌説話の形成に影響した可能性を指摘している[11]。

小式部内侍との間では、いわゆる「大江山」の逸話が著名である。『金葉和歌集』雑上によれば、和泉式部が保昌に従って丹後国に滞在していたころ、都の歌合に小式部内侍が詠者として選ばれた。定頼はその局を訪れ、「歌はいかがせさせ給ふ、丹後へ人はつかはしてけんや、使まうで来ずや、いかに心もとなくおぼすらん」などと戯れたところ、小式部内侍は、

大江山 いく野の道の 遠ければ
まだふみもみず 天の橋立

と即座に詠んだとされる。「いく」に「行く」と丹後への道中の「生野」、「ふみ」に「踏み」と母からの「文」を掛けた歌で、母の代作に頼っているのではないかという定頼のからかいに応じたものと解されている[12]。

この逸話はのちに『十訓抄』『古今著聞集』などにも採られ、『古今著聞集』では、小式部内侍が御簾から半ば身を出して定頼の直衣の袖を引き止めて歌を詠み、定頼は「こはいかに」と言うのみで返歌もできず、袖を振り払って立ち去ったとする[13]。一方、より早い『金葉和歌集』の詞書では単に「引きとどめてよめる」とされており、後世の説話では場面がより劇的に描かれている。安道百合子は各伝承の差異、小式部内侍の年齢、定頼との関係などを検討し、この説話を単純な史実の記録としてではなく、説話形成の過程を考慮して読む必要を指摘している[14]。

また『宇治拾遺物語』巻第三には「小式部内侍に定頼中納言物云ひ渡りけり」とあり、定頼が小式部内侍と男女の交際をしていたとする説話を載せる。小式部内侍の局に別の男性が訪れているところへ定頼が来合わせ、立ち去りながら経を誦したところ、その声を聞いた小式部内侍が心を動かされたという内容である[15]。ただし、これらの説話は定頼・小式部内侍の時代より後に成立したものであり、両者の恋愛関係を同時代史料から直接確認することはできない。近年の研究でも「大江山」説話には説話化・演出の可能性が指摘されており、史実としての関係の程度については慎重な評価が必要である[16]。

官歴

『公卿補任』による。

系譜

『尊卑分脈』による。

登場作品

脚注

出典

外部リンク

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