小式部内侍

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小式部内侍

小式部内侍(こしきぶ の ないし、生年不詳 - 万寿2年(1025年)11月没[1])は、平安時代中期の女流歌人。父は橘道貞[1]、母は和泉式部[1]寛弘6年(1009年)頃より、母と共に彰子に出仕した[1][2]

母同様、恋多き女流歌人として、藤原教通藤原頼宗藤原範永藤原定頼など、多くの高貴な男性との交際で知られる[1]。当初は藤原頼宗が言い寄ったが、藤原教通と婚姻関係となり、寛仁2年(1018年)教通の子を産んだとされる[1]。教通との間には静円、範永との間には娘をもうけている。万寿2年(1025年)、藤原公成の子(頼忍阿闍梨)を出産した際に死去した[1]。享年は28歳前後とされる[1]。藤原範永との間に娘を産んだとする説もあるが、確たる史料はない[1]

内侍が死去した際、母の和泉式部が詠んだ歌は、哀傷歌の傑作として有名である。

とどめおきて誰をあはれと思ふらむ 子はまさるらむ子はまさりけり後拾遺和歌集』哀傷

小式部内侍の逸話は、下記の「大江山」の歌のエピソード、また教通との恋のエピソードを中心に、『十訓抄』や『古今著聞集』など、多くの説話集に採られている。また『無名草子』にも彼女に関する記述があり、理想的な女性として賞賛されている。

伝承

歌人として

脚注

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