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藤原実衡

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時代 平安時代後期
生誕 康和2年(1100年)[1]
別名 高松中納言
 
藤原 実衡
時代 平安時代後期
生誕 康和2年(1100年)[1]
死没 永治2年2月8日 (1142年3月7日)
別名 高松中納言
官位 従三位、権中納言
主君 堀河天皇→鳥羽天皇→崇徳天皇→近衛天皇
氏族 藤原北家閑院流
父母 父:藤原仲実、母:藤原顕季の次女
兄弟 実衡、公頼、藤原実隆室、季輔、季重、季兼、実命、円良、藤原宗能室
妻 真如房尼(吉田経房の叔母)
子 実暁、衡範
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藤原 実衡(ふじわら の さねひら)は、平安時代後期の公卿。藤原北家閑院流、権大納言・藤原仲実の長男。官位は従三位・権中納言。高松中納言と称した[2]。

白河院政期中期の長治2年(1105年)叙爵。天永3年(1112年)侍従に任官し、翌年昇殿を許される。永久3年(1115年)従五位上・右近衛少将に叙せられると、永久4年(1116年)正五位下、元永3年(1120年)左近衛少将と昇進するが、同年7月に小板敷で兵部大輔・藤原資信と乱闘事件を起こし除籍されてしまう[3]。翌保安2年(1121年)許され左少将に復すと、保安3年(1122年)右近衛中将、天治3年(1126年)従四位上、天承2年(1132年)正四位下と、白河院政期後期から鳥羽院政期前期にかけて近衛次将を務めながら再び昇進を重ねた。

長承2年(1133年)に蔵人頭に補せられると、翌長承3年(1134年)参議に任ぜられ公卿に列する。議政官の傍らで引き続き中将を兼帯し、この間の保延5年(1139年)従三位に昇叙されている。

保延6年(1140年)に権中納言に昇進するが、永治2年(1142年)2月8日に薨去。享年43。死因は「邪気」とされる[4]。

実衡死後の久安4年(1148年)妻の真如房尼が亡き夫の菩提を弔うために、三千院往生極楽院を建立した[5][6]。

官歴

注記のないものは『公卿補任』による

系譜

脚注

参考文献

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