藤原正章
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1889年(明治22年)8月26日、後の津山市茅町で誕生[2]。神戸三宮で複数の銭湯を経営する藤原家の婿養子[3][4]となる。神戸では同じ飛行機マニアの稲垣足穂と親しみ、一緒に実物大の模型飛行機を造っている[5]。多くの輸入自転車が入って来ていた明治末期から大正にかけて自転車レースは非常に人気があり、自転車選手は子供たちの憧れだった[6]。1913年(大正2年)神戸新聞社が主催する須磨の自転車競走会が開始され正章も参加。これは毎年2回行われ、関西勢だけでなく関東からも選手が来るなど活況を呈した。この頃正章は朝鮮や満州にも遠征している[7]。
1915年(大正4年)5月に上海で開催された第2回極東オリンピックの自転車競技[注釈 1]に日本代表として出場。15マイル競争で50分13秒を記録し優勝した[注釈 2]。同年11月に兵庫県の鳴尾競馬場で開かれた自動車大競走会では4種目のオートバイレースに出場し、自動車との混合レースを除く3つ全てで1着を取る好成績を収めた[8][9]。
東京芝浦で開かれた1917年(大正6年)5月の第3回極東オリンピックでは、20マイル競争に出場し1時間2分53秒を記録[10]。慶應大の池田清次郎に1秒届かず2着となり、惜しくも連覇を逃している[6][11]。
本格的に飛行機の道に進んだのは1916年(大正5年)[3]頃、千葉県津田沼の伊藤飛行機研究所に入所。すぐに自己所有機[注釈 3]を持ったが、度々事故を起こす。1918年(大正7年)2月27日には八日市飛行場で自作の複葉トラクターの離陸滑走中に燃料タンクが爆発、危うく命拾いしている[12]。続いて師の伊藤に制作依頼したエルブリッジ40馬力搭載の機体が同年5月に完成。燕号と呼ばれたがこれも墜落した。
1918年(大正7年)8月に伊藤音次郎の下を卒業[注釈 4]。同年11月には鳴尾競馬場にて第3燕号(エルブリッジ55馬力発動機)が、滑走中離陸できず場外に飛び出して大破。修理して何とか試験飛行を終え、神戸号と命名。翌年1月に同じ鳴尾で離陸直後の失速からまた大破。事故連続の記録を作った[12]。
1920年(大正9年)1月4日、大阪城東練兵場から神戸訪問飛行を試みたが離陸直後に発動機の不調で墜落[注釈 5]。機体は粉砕したが正章は胸を打っただけの軽傷であった[15]。
その後も伊藤式恵美号、中島式5型、一〇式艦上戦闘機改、一四式水上偵察機改など数多くの中古機を買っては破損し続けた[12]。
これと並行して、1922年(大正11年)6月に千葉県下志津飛行場にて行われた第3回懸賞飛行大会、同年11月の第5回懸賞郵便飛行大会(東京ー大阪間)、1924年(大正13年)12月に伊勢湾外周を飛んだ第5回懸賞飛行大会、1925年(大正14年)10月に京都近郊で行われた第2回特別優賞杯競技飛行大会など、帝国飛行協会が主催した上記の大会に参加したが、いずれも目立った成績を上げるには至らなかった[16]。
多くの事故を繰り返した為ついに資金が底をつき、経営していた神戸の銭湯6軒を手放して飛行士を引退[12]。肩書きを神戸学生航空研究所所長兼技術主任とする[1]。また1942年(昭和17年)夏には50代ながらオートバイの耐久レースに出場[17]して元気な姿を見せた。第二次大戦後は自身が中心[7]となり、1948年(昭和23年)全国に先駆けて兵庫県自転車振興会を設立。その専務理事[18]や競技部長などを務め、翌1949年(昭和24年)11月に京都市宝ヶ池で初開催された際は指導に訪れるなど、競輪の発展に寄与した[注釈 6]。
酒は一滴も飲まなかったが、往事は毎晩カフェーに通ったり外国製煙草を燻らせたりとハイカラで知られた。飛行時間1,040時間、墜落3回、不時着4回、離着陸の際の転覆12回を自称し、航空事故件数の最高記録保持者と呼ばれたという[12]。
脚注
注釈
- ↑ 日本自転車界として初めての国際公式競技への参加だった。
- ↑ 正章はオープン競技の5マイル競争と100m追跡にも出場し共に優勝している[7]。
- ↑ 1917年(大正6年)10月に燕号が完成。命名は愛用自転車の商標から。
- ↑ 山縣豊太郎に次いで福永朝雄と同時卒業。証書の順で言うと3番目の卒業生[13]。
- ↑ この発動機は田村敏一が鳥飼繁三郎から買って田村式トラクターに使用したノーム50馬力で、一森義憲の手に渡り一森式1号機となって正章の神戸訪問飛行に使用された[14]
- ↑ 昭和二十二年(1947年)に没し昭和三十四年(1959年)に追悼会を開催したと書かれている書籍[19]もあるが、1952年発行の「サイクル日本」5月号に寄稿するなどその後も活動の足跡が見られる。正しくは昭和三十二年没か。
出典
- 1 2 『航空年鑑』(昭和7)帝国飛行協会、648頁。NDLJP:1177960/341。
- ↑ 『航空年鑑』(昭和10年)帝国飛行協会、1983年3月、578頁。NDLJP:1177425/348。
- 1 2 中正夫『翼の誕生』東華社書房、1943年、121-122頁。NDLJP:1068522/68。
- ↑ 稲垣足穂『ヒコーキ野郎たち (河出文庫)』河出書房新社、1986年8月、114-115頁。NDLJP:12485525/59。
- ↑ 青木重雄『青春と冒険:神戸の生んだモダニストたち』中外書房、1959年、197-198頁。NDLJP:1334997/109。
- 1 2 『競輪三十年史』日本自転車振興会、1978年11月、22頁。NDLJP:12441219/30。
- 1 2 3 棚田真輔『スポーツ人風土記』 中巻、道和書院、1975年、393-395頁。NDLJP:12147652/203。
- ↑ 『大阪朝日新聞』1915年11月21日、朝刊7頁。
- ↑ 『大阪朝日新聞』1915年11月21日、夕刊2頁。
- ↑ 『柔道』3 (6)、柔道会本部、1917年6月、85頁。NDLJP:2244146/49。
- ↑ 『世界大百科事典』(1972年版.13)平凡社、1979年、365頁。NDLJP:12404933/188。
- 1 2 3 4 5 野沢正 編『日本航空機総集』 第8巻 (九州・日立・昭和・日飛・諸社篇)、出版協同社、1980年10月、171頁。NDLJP:2527168/88。
- ↑ 平木国夫『空駆けた人たち:静岡県民間航空史』静岡産業能率研究所、1983年3月、26頁。NDLJP:12063013/24。
- ↑ 野沢正 編『日本航空機総集』 第8巻 (九州・日立・昭和・日飛・諸社篇)、出版協同社、1980年10月、132頁。NDLJP:2527168/69。。
- ↑ 『乗りもの:交通機關雜誌』2 (2)、竜洋社出版部、1920年2月、62-63頁。NDLJP:1532308/57。
- ↑ 『協会75年の歩み:帝国飛行協会から日本航空協会まで』日本航空協会、1988年8月、201頁。NDLJP:13073004/103。
- ↑ 中正夫『翼の誕生』東華社書房、1943年、578頁。NDLJP:1068522/68。
- ↑ 『真相』5 (4) (40)、真相社、1950年4月、62頁。NDLJP:3555939/33。
- ↑ 月岡朝太郎『自転車競走』日刊プロスポーツ新聞社、1978年10月、22頁。NDLJP:12143755/18。