藤原豊沢
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出自
彼は政権中央での権力獲得を目指さなかった。父の藤成が任期後に去った後も下野に残り、史生を務めていた母方の鳥取氏との関係を緊密にするなどして、地方豪族としての権力を築いたと見る説がある[3]。
しかし、父とされる藤成の系譜上の位置づけは魚名の子とする説のほか、藤原房前の子とする説、藤原良相の子とする説があって系譜が安定していない。また、魚名から藤原秀郷までわずか五代で二百年が経過しており、虚妄なることは明白とする指摘もある。この説では下野国の鳥取氏が藤原氏に仕え、その系譜を冒したものであるとされる[4]。また、藤成は下野国での活動が史料で確認できず、その子とされる藤原豊沢以降の歴代も六国史などの史料に確認できない。