藤沢海軍航空隊
From Wikipedia, the free encyclopedia
航空無線兵器整備教育を目的として、電波・光学兵器の整備員を養成する唯一の航空隊であった。
司令部は、グリーンハウス(神奈川県藤沢市、藤沢カントリー倶楽部のクラブハウス)に置いた。
レーダー搭載機そのものが少なく、実際に飛来して整備する必要があったのは、むしろ光学計器類であった。
教育期間は6か月間で、最初の2か月間は新兵教育期間とされ、約1万人が教育を受けた。
毎朝江の島往復のマラソンが行われた。
高等科以外は銃を担いで基地内を走るのが日課で、それが終わると、戦闘機電話(三式空一号無線電信機改三)の訓練が行われたが、教科書は兵士数分なく、授業のたびに配布・回収された。
沿革
司令
- 上田泰彦(前筑紫艦長):1944年(昭和19年)6月1日 - 1945年(昭和20年)8月25日
跡地
グリーンハウスは藤沢市に払い下げられ、市営競技場(現・アサンテ スポーツパーク)の合宿所として使われた後、1953年(昭和28年)神奈川県庁に移管。県営藤沢総合運動場→県立スポーツセンター第2合宿所となり健在である。
→詳細は「神奈川県立スポーツセンター § グリーンハウス」、および「藤沢カントリー倶楽部 § 歴史」を参照
藤沢飛行場は1953年(昭和28年)、当地を本拠に航空機製造を手掛けようとした東洋航空工業の手により再開され、小型軍用機フレッチャー FD-25およびこれを基にした戦後日本2番目の国産練習機TT-10が生み出された。しかし東洋航空工業は社業を発展させることが出来ず、1964年(昭和39年)、飛行場の供用を廃止。飛行場用地は荏原製作所に売却され、東京都大田区羽田旭町の本社工場(現・本社事務所)に次ぐ主力生産拠点となる。東洋航空工業は1969年(昭和44年)に解散、清算された。
→詳細は「東洋航空工業 § 歴史」、および「荏原製作所 § 事業所」を参照