蠣崎季広
日本の大名
From Wikipedia, the free encyclopedia
生涯
天文8年(1539年)、嫡男の蠣崎舜広が誕生。
天文9年(1540年)、次男の明石元広が誕生。
天文15年(1546年)、主君の安東尋季の命令で、羽後国檜山郡深浦郷の森山館主の森山季定の平定に参加した。
天文17年(1548年)、季広の従兄弟である蠣崎基広が不満を持ち謀反を起こすが、家臣の長門広益に鎮圧させる。三男の松前慶広が誕生。
天文18年(1549年)(もしくは天文20年(1551年))、父の時代からのアイヌと対決姿勢を転換し、アイヌの首長である東地のチコモタイン及び西地のハシタインと和睦し、道南地方の支配権を確立した。家臣団の編成やアイヌとの交易権の独占により蠣崎氏の強化を図った。なお、この和睦については前年に蝦夷地入りし、和睦に立ち会った安東舜季の主導によるものという説がある[3]。しかし、この頃の蠣崎氏はまだ安東氏の支配下にすぎなかった。そのため、季広は安東氏の要請に応えて度々兵役の負担を強いられている。一方で季広は13人の娘達を安東氏のみならず奥州の諸大名と娶わせて姻戚関係を作り、系譜上安東氏と対等の関係に立とうとしたとも見られている。
永禄3年(1560年)、三男の松前慶広を陸奥国の浪岡具運に出仕させる。
永禄4年(1561年)、長男の蠣崎舜広が長女(南条広継の正室)に毒殺される。十男の蠣崎仲広が誕生。
永禄5年(1562年)、次男の明石元広が舜広と同様に長女に毒殺される。長女を舜広・元広殺害の罪で誅殺する。その夫の南条広継も自害させる。
永禄10年(1567年)、主君の安東愛季に従い、南部領鹿角郡侵攻作戦に参加する。
天正6年(1578年)、津軽為信が浪岡氏を滅ぼす。季広は浪岡顕村からの援軍要請に応じ出陣したが間に合わなかった。
天正9年(1581年)、主君の安東愛季の要請を受け、津軽奪還作戦に十男の蠣崎仲広を送るが、仲広は戦死する。
天正11年(1583年)、三男・慶広に家督を譲って隠居する。松前藩史『新羅之記録』によると慶広が豊臣秀吉の直臣となったことを喜び、「自分はこれまで檜山屋形(安東氏)に仕えてきたが、おまえは天下の将軍(原文ママ)の臣となった」と言い、息子を伏し拝んだと記載されている。名実ともに独立大名になったのは豊臣政権下だが、その下地は季広が築いたといえる。
文禄4年(1595年)に死去。享年89。墓所は松前藩松前家墓所にあるが、始祖の信広から4世季広までは一つの墓に合祀されている[2]。
系譜
- 父:蠣崎義広(1479-1545)
- 母:不詳
- 正室:伝妙院 - 河野季通の娘
- 生母不明の子女
- 長女:南条広継正室
- 次男:明石元広(1540-1562) - 明石季衡の養子
- 四男:蠣崎随良 - 法源寺住持
- 五男:蠣崎正広 (1557-1586) - 正広系蠣崎家初代
- 六男:蠣崎長広 - 定広、長広系蠣崎家初代
- 七男:蠣崎定広 - 信広、但馬守
- 八男:蠣崎包広 - 与三郎、典三郎、早世
- 九男:蠣崎吉広(?-1645) - 吉広系蠣崎家初代
- 十男:蠣崎仲広 (1561-1581) - 助五郎
- 十一男:蠣崎守広(1564-1635) - 忠広、広勝、守広系蠣崎家初代
- 十二男:蠣崎員広 - 景広、主水助、員広系蠣崎家初代
- 十三男:蠣崎貞広 - 右衛門大夫、兄:正広の養子
- 女子:下国師季正室
- 女子:喜庭季信室
- 四女:小平季遠室
- 女子:厚谷季貞室
- 女子:安東茂季正室
- 女子:村上忠儀室
- 女子:神浦季綱室
- 女子:下国重季室
- 女子:下国直季室
- 女子:佐藤季連室
- 女子:村上直儀室
- 十三女:新井田広貞室