袁建豊
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李克用が黄巣を破ったとき、建豊は華陰県で捕らえられた。ときに9歳で、才知にすぐれて人品が高かったことから、李克用に愛されて養育された。成長すると、騎射を学んで李克用の側近に列し、鉄林軍都虞候に任じられた。大順元年(890年)、李克用が盧龍軍節度使の李匡威を討つと、建豊はこれに従軍した。乾寧2年(895年)、邠寧節度使の王行瑜に対する征討に従い、功により左親騎軍使となり、左突騎指揮使に転じた[1][2]。
天祐5年(908年)、晋王李存勗に従って潞州の包囲を解いた。天祐8年(911年)、柏郷の戦いで功績を挙げ、尚書右僕射・左廂馬軍指揮使となった。李嗣源が牙内指揮使となると、建豊は牙内指揮副使をつとめた。天祐10年(913年)、燕の劉守光を討つと、建豊は部隊の先頭に立って戦った。都教練使・蕃漢馬歩軍副総管に転じた。李存勗が魏州に入ると、建豊は選抜されて魏州都巡検使となった[1][2]。
天祐13年(916年)、後梁の劉鄩を討つのに従い、衛州・磁州・洺州を下すのに功績があって、検校司空を加えられ、洺州刺史に任じられた。臨洺県の西で後梁の将の王遷ら数千人を破り、将領70人あまりを生け捕りにした。この年の8月、相州刺史に任じられた。天祐15年(918年)、黄河に赴き、胡柳陂の戦いに参戦した。建豊は相州の軍士を率いて外地の陣営に身を置き、相州の事務は官吏に任せていたため、相州の統治に失敗し、指揮使の孟守謙が相州城に拠って叛いた。建豊は兵を率いてこの反乱を鎮圧した。隰州刺史に転じ、在任中に中風にかかった[3][2]。
天成元年(926年)、明宗(李嗣源)が即位すると、建豊の邸に行幸し、その病を見舞った。検校太傅を加えられ、鎮南軍節度使を遥領した[4][2]。天成3年(928年)1月9日[5]、洛陽で死去した。享年は56。太尉の位を追贈された[4][2]。