袴田巌
日本の元プロボクサー (1936-)
From Wikipedia, the free encyclopedia
経歴
プロボクサーとして
静岡県浜名郡雄踏町(現・浜松市中央区)生まれ[2]。中学卒業後に同県清水市(現・静岡市清水区)内の串田ジム(当時)でボクシングを始め、アマチュアでの戦績は15戦8勝7敗、うちノックアウト7。1957年、静岡国体に成年バンタム級出場。
プロボクサーをめざし、1959年に上京して不二拳闘クラブに入門し、岡本不二に師事する。1959年11月にプロデビューし、全戦績は29戦16勝(1KO)10敗3分[3]で最高位は全日本フェザー級6位[3]。1961年5月、身体の不調のためプロボクサーを引退する。年間19戦出場(1960年)は、2025年末時点で日本国内最多記録である[3]。
だが、袴田はボクシングに未練があったようで、引退後しばらくは串田ジムの会長に「復活してまたボクシングをやりたい」と言っていたらしく、2014年の釈放後も串田ジムの場所は覚えていたようで、散歩中に当時ジムがあった付近を一生懸命歩いていたという。
姉は後の取材で、「本人は一生懸命やっていたようだけど、巌(=袴田)は優しい性格だったからね。それが災いしてか、KOのチャンスでも相手を追い込めなかった。ボクシングは巌には合わなかった」と言っている。
袴田事件により逮捕
引退後、袴田は清水市内(当時)でバーを開いたが長くは続かずすぐに閉店した。この頃に結婚し息子が1人いるが2025年現在も60年近く音信不通であるとの事。バーを閉店後に妻とは離婚している。再起を期しつつ、静岡県清水市(現・静岡市清水区)横砂の有限会社王こがね味噌橋本藤作商店(1972年に「株式会社富士見物産」と改称)に就職[4]。袴田は事件当時、工場2階の寮に住んでいた[5]。
1966年6月30日に同社専務宅で、のちに「袴田事件」と呼ばれる強盗放火殺人事件が発生。専務一家4人が刺殺により殺害されて、37万円の集金袋が奪われ、この民家が放火された。袴田の姉によれば、姉は当日の昼、浜松市内にあった当時の職場で昼休憩時にテレビを見ていたらこの事件が報道されており、すぐに「事件現場は弟(巌)の職場じゃないか」と分かったという。
8月18日、当時30歳だった袴田は容疑者として静岡県警察に逮捕された。巨漢で柔道の有段者である専務と格闘できる人間として元ボクサーである袴田が疑われた。袴田は連行される際、家族に「自分は(事件とは)関係ないんだから3日もすれば帰ってくるよ」と言っていた事が後に姉により明かされている。しかしこの日から実に50年近くもの間、袴田が帰って来る事はなかった。
違法な取り調べ
取り調べでは当初から無実を主張したが、8月の猛暑の中で日曜日も休まず、連日平均12時間~長い日は16時間50分にわたって警察による取り調べが行なわれた。疲労と睡眠不足に加え、取り調べ中には水も与えられず、自由にトイレにも行けず、時には激しい暴力をふるわれて精神的・肉体的拷問が繰り返され、自白を強要されて調書を取られた[6]。この最中、袴田は家族に宛てて「僕は絶対にやっておりません」という手紙を送っていた。
取調べの期間中、一部の警官達は内部で袴田を「ボクサー崩れ」と呼んでおり、当時の捜査報告書にもそう記されていた事が後に判明している。姉はこれについて、後の取材に「ならばもし巌(=袴田)が剣道か柔道をしていたら逮捕される事はなかったのだろうか」と答えている。
翌年の1967年8月31日、味噌製造工場にある味噌の1号タンク内から、従業員が血染めの「5点の衣類」を発見。この衣類には、袴田と同じ「B型の血液」が付着していたとされ、袴田の有罪判決における唯一ともいえる物証となった。衣類のサイズが小さかったことは、味噌タンクに浸かっていて縮んだためとされた。(後の再審において、DNAが袴田と一致しないことが判明し、この証拠は虚偽であると認定された)。
裁判で死刑判決
取り調べでの自白強要が問題視され、「検事による1通の自白調書」を除いた44通の自白調書は、裁判所で証拠採用されなかった。公判では一貫して無実を主張したが、1968年9月11日、静岡地裁が「死刑判決」を宣告。
この判決直後、誰よりも袴田の無罪を信じていた袴田の母親が「巌はダメかいね」と言い遺し逝去、袴田は酷く落ち込んだという。姉・ひで子によると、「あの時、『自分がやらなければ』と思った」という。これ以降、ひで子は積極的に巌の支援に乗り出していく事になり、最終的な無罪判決が確定するまでの長きに渡り、自ら先頭に立って袴田を支援し続けた。
死刑判決で収監
1984年12月24日、教誨師の志村辰弥神父から洗礼を授かる。霊名はパウロ[7]。
1992年8月15日には、袴田巌さんを救う会編『主よ、いつまでですか : 無実の死刑囚・袴田巌獄中書簡』が新教出版社から出版された[8]。
2003年3月10日、衆院議員だった保坂展人や弁護団と面会。弁護団とは12年ぶりの面会だった。国を相手に勝訴し5億円の賠償金を手に入れたと思い込む、袴田巌を吸収した全能の神を自称する、姉を姉の偽者として疑うなどの拘禁症状がみられた[9]。しかし2024年の姉の誕生日にはプレゼントを渡し「気づいたっちゃあ気づいてたんだ。紳士的だね」とコメントしており、更に「姉という事で、戦いにおいて姉は味方だから。問題はどこまで味方でいられるかという事だ。頑張って貰いたいんだがね」と言っている事から、現在は少なくとも姉の存在について分かっている様である。この際、「日常生活で姉に言いたい事はあるか」と聞かれた袴田は「姉弟だという事ね」と答えている。
後の姉の証言によると、袴田の拘禁症状は死刑判決が確定してからだったとの事。死刑が確定し、死刑囚専用の独房に移されたある日、姉が面会すると袴田は「隣にいた死刑囚の刑が執行された。皆がっかりしている」と話し、以降、度々面会拒否するようになったり、面会しても意味不明な事を言い出すようになったという。姉・ひで子はこれについて、「あの時から間違いなくおかしくなった」と後に語っている。
これらの拘禁症状は無罪が確定した後、2025年現在もまだ続いている様である。現在、袴田と同居する姉は、袴田の拘禁症状について「(袴田には)自分の世界があるようで、今もたまに(そこに)入っている。けどそれは(特殊な環境下にいた袴田にとっては)仕方ない事なので、そうなっても何も言わない事にしている」と証言している。
47年ぶりに釈放
弁護団による2度の再審請求などを経て、2014年3月27日、静岡地方裁判所が再審開始と死刑および拘置の執行停止を決定、東京拘置所から47年7か月ぶりに釈放された。2014年の第2次請求審において、犯人が着ていたとされたシャツについた血液のDNA型が「袴田元被告と一致しない」との鑑定結果が出て、唯一ともいえる物証が否定されたことが決め手となった。
釈放後は東京都内の病院に2か月間入院して長年の拘置所生活による拘禁反応の症状などの治療を受け、48年ぶりとなる2014年5月27日に故郷の浜松市に帰還[10][11]。地元の病院でさらに治療を受けたあと、7月1日に退院して姉宅で生活を始めた[12]。姉はこれより以前、「いつか巌(=袴田)が帰って来たら住めるように」との思いから借金をして自宅を建てていた。これについて後に「借金してたら自殺する事もないだろうと思って」と証言している。
釈放直後の2014年4月6日、大田区総合体育館にて、世界ボクシング評議会(WBC)認定名誉王者のチャンピオンベルトが贈られた[13][14]。5月19日に後楽園ホールで行われた「ボクシングの日」ファン感謝イベントに本人が来場し贈呈式が催された[15]。
再審開始
静岡地方検察庁は2014年3月31日、再審開始決定について東京高等裁判所に即時抗告。
2018年6月11日、東京高裁は再審開始を認めない決定を出した[16]。東京高裁は拘置の執行停止は取り消さなかったため釈放は維持された。弁護側が特別抗告し、最高裁判所は2020年、高裁の決定を取り消して差し戻した。
2023年3月に東京高裁は静岡地裁の決定を支持する決定を出し、東京高等検察庁は特別抗告を断念。死刑確定事件では戦後5例目となる再審の開始が決まった。
再審での無罪判決
2024年9月26日に静岡地方裁判所(国井恒志裁判長)で行われた再審により、無罪判決が言い渡された。死刑確定者に対する再審による無罪は、島田事件以来35年ぶりであり、第2次世界大戦終戦より5例目となった[17][18]。2014年の釈放から約11年、1980年に死刑が確定してからは約44年が経過していた。1966年8月、当時29歳で逮捕されてから実に58年が経ち、袴田は87歳になっていた。
この判決において、「5点の衣類」の共布と血痕のほか、唯一証拠採用された検察官調書のいずれもが、「捜査機関によって捏造されたもの」だと判断された[19]が、検察は未だに捏造を認めていない。
2024年10月8日、検察側が控訴を断念すると表明した[20]。翌9日に検察は上級審へ控訴手続きの放棄を行ったことで、これにより、同日付で袴田の無罪が確定した[21]。確定後、袴田自身は「警察に対して怒っているか?」という支援者からの質問に対し、「無罪となったんじゃあね、もうしょうがない。怒ったってしょうがない」と答えている。後日、静岡地検は袴田に謝罪した。
刑事補償金と国家賠償
2025年3月24日、静岡地裁は袴田に対し、刑事補償法の上限額となる約2億1700万円の補償を請求通り支払う決定を出した。刑事補償としては過去最高額と見られるという[22]。1日あたり1万2,500円×365日×47年7カ月間の計算となり、上記のような金額となった。
また、これ以外にも、「不法な取り調べ行為」「3つの証拠捏造」について、袴田が国家賠償訴訟を行いそれが認められた場合には、さらに別途に賠償金が支払われる可能性がある。ただし、国家賠償は「検事や刑事が、被疑者が犯人ではないと知りながら証拠を捏造して逮捕勾留したときなどに適用される」ものであり、『故意にやった』ことが明らかにならないとならないため、一般的にハードルが高いものである。
しかし、袴田の場合は「捏造があった」と静岡地裁が認めており、検察も控訴を断念していることや、逮捕から58年・死刑判決を受けて47年にわたって人権を奪われていることから、それらを含めて迅速かつ総合的な判断が求められている[23]。
民事訴訟
2026年3月、「控訴断念時の検事総長談話で名誉を傷つけられた」として、国に損害賠償を求めた訴訟で、国が争う方針を示した[24]。
ギネス世界記録
出演
映画
すべてドキュメンタリー。