裴懐古
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儀鳳2年(677年)、宮殿を訪れて上書し、下邽県主簿に任じられた。長寿2年(693年)、監察御史に累進した。姚州・巂州の少数民族たちが反乱を起こすと、懐古は勅命を受けてかれらを招撫した。ときに恒州鹿泉寺の僧の浄満が弟子に陥れられて呪詛をおこなっていると誣告されると、武則天は浄満を糾問して殺すよう命じた。懐古は事件を調査すると、浄満を釈放して奏聞した。武則天は激怒したが、懐古は無実の人を殺してはいけないと諫めて、聞き入れられた[4][3]。
聖暦元年(698年)、右豹韜衛大将軍の閻知微が東突厥への使節として赴くと、懐古はその監軍をつとめた。東突厥の牙帳に到着すると、黙啜は閻知微を脅して南面可汗に立て、懐古にも東突厥の職を与えようとした。懐古は従わなかったため、殺されそうになった。単身で逃亡して帰国し、祠部員外郎に任じられた[5][3]。
ときに姚州・巂州の少数民族の首長たちが宮殿を訪れて、かつての懐古の綏撫を称え、牧守としての赴任を求めた。そこで懐古は姚州都督に任じられた。病のため赴任せず、司封郎中に転じた。始安県の反乱指導者の欧陽倩が数万の人々を擁して州県を攻略したので、懐古は桂州都督となり、招討使をつとめた。嶺南に着任すると、信書を急ぎ送って反乱参加者たちを招き誘い、利害を説いて降伏させた。両端を持していた少数民族の首長たちも帰順してきて、嶺南は全て平定された[5][6]。
神龍3年(707年)、懐古は相州刺史に任じられ、任地で民衆と官吏に慕われた。景雲元年(710年)、左羽林軍大将軍に任じられたが、長安に着く前に并州大都督府長史とされ、河東郡公に封じられた。并州の人々は懐古が帰ってきたと知ると、老若連れ立って、郊外で歓迎した[7][8]。景雲2年(711年)、幽州都督・安東都護に転じた。延和元年(712年)、召還されて左威衛大将軍となった。先天元年11月3日(同年12月5日)、長安県布政里の私邸で死去した。享年は75。使持節・都督兗州諸軍事・兗州刺史の位を追贈された[1]。