韋玄貞
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曹王府典軍の韋弘表の子として生まれた。はじめ普州参軍となった。娘が皇太子妃となると、玄貞は豫州刺史に抜擢された。弘道元年12月(684年1月)、中宗が即位すると、娘は皇后に立てられた[1][2]。玄貞は中宗に侍中に任じられるところだったが、中書令の裴炎の強い反対を受けた。中宗は「玄貞に国を譲ってもいいとさえ思っているのに、どうして侍中を惜しむのか」と発言した。裴炎は武則天に廃立を相談した[3][4]。嗣聖元年2月(同年2月)、中宗が廃位されて廬陵王に降封されると、玄貞は欽州に配流されて死去した。妻の崔氏は、欽州の首長の甯承基兄弟に殺害された。玄貞の4人の息子である韋洵・韋浩・韋洞・韋泚もまた容州で死去した。皇后のふたりの妹は、逃亡して長安に帰った[1][2]。
神龍元年(705年)、中宗が復位すると、韋氏も皇后に復位し、玄貞は上洛郡王に追封された。ほどなく玄貞は太師・雍州牧・益州大都督の位を追贈された。酆王に追封され、諡は献恵といった。廟号は褒徳といい、陵墓は栄先といった[5][2]。景龍4年(710年)、睿宗が復位すると、玄貞の陵墓は削られて平地にされた[6]。