異母兄である覚行法親王のもとで出家・受戒し、法名ははじめ真行と称し、のちに行真と改め、さらに覚法と改めた。長治2年(1105年)覚行の没後に仁和寺寺務に就任。寛助・範俊から灌頂を受け、天永3年(1112年)親王宣下を受けている。保延5年(1139年)には自らの観音院を御願寺として東寺に準じる灌頂会を開催することを勅許された。保延7年(1141年)には鳥羽上皇受戒の際には受戒の師をつとめた。皇子誕生や天皇の病気平癒のために孔雀経法を修している。真言密教の事相に詳しく仁和寺御流を創唱している。
背が高く声が美しかったとされ、能筆でもあったという[2]。