諏訪盛澄
平安時代末期から鎌倉時代初期の神職・武将
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諏訪 盛澄(すわ もりずみ)[注釈 1]は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての神職・武将・下級貴族。諏訪大社の大祝(最高位の神職)。上社か下社かは不明。秀郷流と伝承される流鏑馬術を極めた武芸の達人として名高い。平家の家人(家臣)だったため源頼朝の囚人となっていたが、文治3年(1187年)に鶴岡八幡宮放生会で弓の神技を披露したことから罪を赦され、側近の御家人として仕えた。後世に書かれた『諏方大明神画詞』の増補部分(成立は1356〜1442年のどこか)では下社大祝の金刺盛澄(かなさし の もりずみ)として登場。弟に手塚光盛がおり、娘を征東大将軍の源義仲(木曽義仲)に嫁がせていたと物語られている。また、同書では梶原景時の取り成しで命を救われたとされ、報恩として下社の梶原塚が建立されたと伝えられる。
生涯
御家人となるまで
鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』における諏訪盛澄(諏方盛澄)の初見は、文治3年(1187年)8月15日条である[1](『信濃史料』3・391所収『吾妻鏡』文治三年八月十五日条[2])。
この日、鎌倉の鶴岡八幡宮で放生会が開催され、源頼朝(のちの鎌倉幕府初代将軍)が臨席した[2]。流鏑馬の儀が行われ、まず射手5人が腕前を披露した[2]。その後、珍しい事が起こった[2]。
さて、諏訪盛澄という人物はもともと、藤原秀郷(平将門を討った10世紀前半の名将)の極意(「秀郷朝臣秘決」)を継承し、流鏑馬を極めた達人である[2]。しかし、平家の家人として長年在京しており、城南寺の流鏑馬行事などに欠かさず参加していた[2]。そのため、鎌倉政権に馳せ参じるのが遅れ、頼朝の怒りを買って、囚人となっていた[2]。しかし、盛澄を処断してしまえば秀郷流の流鏑馬術が永遠に失われてしまうため、刑の執行が伸ばし伸ばしになっていた[2]。
そうしていたところ、突然この日に盛澄は召し出されて流鏑馬に加わるように指示された[2]。
まず、頼朝は御厩(鎌倉殿の馬屋)で一番の悪馬を盛澄に与えた[2]。御厩舎人(馬屋番)がこっそりこの馬は右に寄るという癖を盛澄に教えてくれたので、達人である盛澄は軌道修正して難なく的を全て射た[2]。
次に頼朝は、5寸(約15センチメートル)の串に小土器(こかわらけ、小型の陶器)を挟み、それら3つを全て射るように命じた[2]。盛澄はこれも全て射落とすことができた[2]。
最後に頼朝は、残った3本の5寸串を射抜くという無理難題を押し付けてきた[2]。これにはさすがの盛澄も運が尽きたと思ったが、心の中で諏方大明神に祈りを捧げて、鏃を平に捻り回すという技術で見事に全て射抜いた[2]。
盛澄の妙技に観客たちはみな感じ入り、頼朝もあっぱれとして罪を赦免した[2]。
御家人として仕える
その後は文治4年(1188年)2月28日条・8月15日条、建久元年(1190年)4月3日条などで鶴岡八幡宮の行事の射手として名前が残る[1]。
建久4年(1193年)3月21日、将軍・源頼朝が下野国那須野(栃木県北部那須地域)、信濃国三原(群馬県吾妻郡嬬恋村大字三原)[注釈 2]で狩倉を行うため、鎌倉を出立した(『信濃史料』3・441所収『吾妻鏡』建久四年三月廿一日条)[3]。このとき頼朝の側近のうち弓に秀でた者として弓矢の帯同を許可された22人の一人に、「諏方大夫」として名前が残る[3]。
源頼朝の側近として
建久4年(1193年)9月、北条泰時(後の第3代執権)の元服前の「矢口餅の儀式」では、「諏方祝盛澄」として三の口を賜っている(『信濃史料』補遺上・146所収『吾妻鏡』建久4年9月11日条)[4]。
矢開き(矢口祭)は、武門に生まれた男子がはじめて獲物を仕留めた際に、獲物の肉を調理し餅を備えてお祝いし、餅を射手らに食べさせる儀式である[5]。なお、餅を賜った1人目は小山朝政、2人目は三浦義連(佐原義連)である[5]。小山氏・三浦氏はともに幕府開創以来の有力御家人である[5]。盛澄はこの儀式に少し遅刻してしまっていたが、郷道哲男の推測によると、まさか自分がこれらの有力御家人と並んで指名されるとは、想像していなかったからではないか、という[5]。この時点での諏訪盛澄が、源頼朝からいかに信頼されていたかが窺える[5]。
また、このときの逸話では「祝」と名指しされており、室町時代の『諏方大明神画詞』や『神氏系図』などで、上社系の大祝(諏訪神道の最高位)は諏訪郡の外に出てはいけない、とされる決まりと異なっている部分も注目される[5]。
晩年
建久5年(1194年)10月9日、頼朝は翌年の上洛での住吉社(住吉大社)での流鏑馬の儀に備えるため、中原仲業(頼朝の右筆)を記録係として、小山朝政の屋敷に弓に通じるものたちを集めてその有職故実を審議させた(『信濃史料』3・496所収『吾妻鏡』建久五年十月九日条)[6]。集められた御家人として、小笠原長清・和田義盛・海野幸氏らと共に「諏方大夫盛澄」の名が見える[6]。
建仁3年(1203年)1月3日、鎌倉幕府の的始の儀式で、海野幸氏・和田常盛・望月重澄(望月重隆?)と共に参加した射手に、「諏訪太夫盛澄」の名前がある(『信濃史料』3・496所収『吾妻鏡』建仁三年正月三日条)[7]。
元久元年(1204年)1月10日条(諏方大夫の「盛隆」と誤記)、ついで2月12日条(「諏方大夫」)でも幕府の行事の射手として言及され、これが『吾妻鏡』での終見である[1]。
その後、『吾妻鏡』嘉禎3年(1237年)7月19日条では、北条泰時が海野幸氏に弓術のことを尋ねた際、源頼朝時代の射手の一人として名前が言及される[1]。
郷道哲男の説によると、盛澄が上社系の人物か下社系の人物かは不明なものの、初期鎌倉幕府と諏訪一族のパイプとしての役割を担ったのは間違いない、という[8]。
その他
諏訪盛澄の史料上の初見の前年である文治2年(1186年)には、諏訪社大祝と地頭の藤沢盛景の土地争いがあり、源頼朝は諏訪社大祝側に味方した、という出来事があった[9]。この大祝は盛澄とは別人と思われるため、『諏方大明神画詞』(#伝承)の記述を受け入れるなら、盛澄は下社大祝で、藤沢盛景と敵対した大祝の某は盛澄と同時代の上社大祝である可能性が高くなる[9]。ただし、郷道哲男は、史実として盛澄が上社か下社かわからず、係争地も「諏訪上下社領」と不可分に記載されている以上、反藤沢氏派の大祝がどちらの社なのかは確実ではない、と慎重な姿勢を取っている[9]。
伝承
『諏方大明神画詞』増補部分
諏訪盛澄は、上社系諏訪氏の庶流である諏訪円忠(小坂円忠)による『諏方大明神画詞』(『諏訪大明神絵詞』とも)の「縁起第四」にも「金刺盛澄」として登場する[10]。ただし、「縁起第四」は、円忠が正平11年/延文元年(1356年)に完成させた原本の10巻本にはない[11]。『康富記』嘉吉2年(1442年)6月11日条に「諏訪明神縁起 絵十二巻」とあるため、この日付までには成立していた[11]。
同書では「下宮祝金刺盛澄」と呼ばれ、下社の大祝だったとされる[10]。また、「弓馬の芸能、古今に比類なし」とまで称される天下随一の武人だったという[10]。
また、同書では「手塚の太郎光盛」(手塚光盛、軍記物語『平家物語』に登場する伝説的英雄)の兄とされている[10]。源義仲(木曽義仲)には娘の一人を嫁がせており、その間には女子一人が生まれていたという[10]。
治承・寿永の乱では、寿永2年(1183)夏ごろに義仲の挙兵に従い、数々の武勲をあげたが、越中国(富山県)の阿努というところに来た時に、御射山神事(みさやましんじ)のため弟の光盛を留め置いて帰国した[10]。しかし義仲が討死したあと、義仲の政敵の源頼朝によって捕縛され、梶原景時に預けられた[10]。
そこからの展開はほぼ『吾妻鏡』と同じだが(#生涯参照)、流鏑馬披露の機会を得るときなどに景時の温情と取り成しがあったとされる[10]。
その後、木曽義仲被官の信濃国の武士60人余りが召し捕られてきた[10]。すると(景時が)寛恕を申し出て、盛澄の重罪でさえ赦されたのだから、まして我らの徒党(頼朝と同じ源氏の大将である木曽義仲に仕えた郎党)である彼らも赦すのが道理であろう、彼らを赦せば子々孫々まで武勇を(源頼朝家のために)尽くすであろう、と進上した[10]。これには頼朝も納得したので、義仲被官たちも罪を免ぜられた[10]。
一同はみな梶原景時の仁徳に深く感謝し、また諏訪社の霊験もあらたかだと感じ入ったので、景時の滅亡後(梶原景時の変)、諏訪下宮上座の堂というところに景時の墓を立ててその菩提を弔ったという[10]。
『諏方大明神画詞』の解釈
伝統的な古説では、諏訪大社の上社大祝家の諏訪氏は本姓「神氏」、下社大祝家の諏訪氏は本姓「金刺氏」で別族とされている[12]。
1982年、小林計一郎は、諏訪盛澄を下社の大祝とする『諏方大明神画詞』の物語を採用した場合の一つの説として、鎌倉幕府の公式史料である『吾妻鏡』に「上社と下社に優劣あるべからず」ともあることを考えれば、幕府には相当な下社贔屓の作為が見られる、と指摘した[13]。とすれば、『尊卑分脈』などの記述とも合わせれば、北条氏に御内人として仕えた諏訪盛重らの一流は、実は上社系統ではなく下社の系統の諏訪氏だったのではないか、と推測した[13]。
一方、小林はまた同書で別説も提示し、鎌倉期の史料には「金刺氏」を本姓とする氏族しか現れない上に、上社系・下社系の人間の見分けも付けにくいことから、そもそも鎌倉時代には上社と下社は同族でどちらの諏訪氏も本姓「金刺氏」だったのではないか、とも推測した[14]。
1995年、郷道哲男は、『諏訪市史』で、上社の大祝家と下社の大祝家が本来は同族「金刺氏」だったとする説について、肯定的方向の意見を示した[15]。盛澄個人に関しては、ある箇所では上社か下社かは不明、とする[8]。一方、別の箇所では盛澄は下社系大祝であろうとし、『諏方大明神画詞』の当該部分が書かれた時点での認識(上社は諏訪氏(神氏)、下社は金刺氏で別族)が過去に遡及されて、「諏訪盛澄」ではなく「金刺盛澄」と書かれたのではないか、とする[16]。
郷道はまた、梶原景時が盛澄を助けたとする伝承の不審点を指摘した[17]。正治2年(1200年)に景時が滅んだ際、景時に味方した信濃武士・諏訪武士が確認されない上に、景時滅亡後も盛澄が御家人として活動していることを考えれば、「虚実は不明と言わざるを得ない」という[17]。
梶原塚
長野県諏訪郡下諏訪町には、『諏方大明神画詞』に記載される梶原塚を記念した石碑がある[18]。
享保年間(1716–1736年)の『諏訪藩一村限村絵図』には既に、現在の下諏訪町にあたる村に「梶原塚跡」という旧跡の名が記されており、その西方には梶原田という田畑が広がっていたという[19]。
21世紀前半時点で存在する「上座堂 梶原塚」と書かれた石碑は、明治11–12年(1878–1879年)に建立されたもので、明治38年(1905年)に旧菅野町公会所に移転され、さらに昭和16年(1941年)に下諏訪町木の下に移転されたものである[18]。