諏方大明神画詞
諏訪大社の縁起
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『諏方大明神画詞』(すわだいみょうじんえことば)は、長野県の諏訪地域に鎮座する信濃国一宮、諏訪大社の最古の縁起絵巻[1]。『諏訪大明神画詞』『諏訪大明神絵詞』『諏訪絵詞』『諏訪大明神御縁起次第』『諏方縁起絵巻』『諏訪縁起画詞』等とも称される。作者は室町幕府奉行人の諏訪円忠。初稿の10巻本は正平11年/延文元年(1356年)12月上旬成立。のち、嘉吉2年(1442年)6月11日までに縁起第四と縁起第五が増補されて全12巻本となった。執筆目的は諸説あるものの、足利直義らの側近として活躍し、主に幕府方の有力武将として力を振るった当時の諏訪大社上社大祝・諏訪頼嗣(直頼)の権威強化を図ったものだった、という説が諏訪信仰研究者と日本史研究者の両側から支持されている。

概要

作者は諏訪円忠(小坂円忠)[2]。初稿本の成立年については、奥書によると将軍の足利尊氏が「延文元年丙申十一月二十八日」(正平11年/延文元年(1356年)11月28日)に内容を確認したことを記し、最終的に円忠が「延文丙申﨟月上澣」(同年12月上旬)に上梓したという[3]。
初稿本は縁起部3巻・祭礼部7巻の計10巻だが、ある時から縁起部へ2巻追加され全12巻になった[2]。正確な経緯・時期は不明だが、『康富記』嘉吉2年(1442年)6月11日条に「諏訪明神縁起 絵十二巻」とあるため、この日付までには成立していた[2]。
本来は『諏方大明神縁起絵巻』・『諏方縁起』等と称する絵巻物であった[4]。しかし、早い段階で絵は失われ、詞書(ことばがき)の部分の写本のみを現在に伝え、文中には「絵在之」と記すに留めている[1]。
著者の諏訪円忠は、神氏(諏訪大社上社の大祝、諏訪氏)の庶流・小坂家の出身で、室町幕府の奉行人であった[4]。成立に関しては洞院公賢の『園太暦』にも記されており、失われていた『諏方社祭絵』の再興を意図したものであったという[4]。
最初に国譲り神話により健御名方神が諏訪に鎮座した由来を記し、ついで神功皇后の三韓征伐や坂上田村麻呂の蝦夷征討などに神威を表わし、軍神として知られるようになった縁起を記している[1]。この画詞の原本は現存しないが、当代一流の絵師2名、書家8名の手になり、各巻の外題は後光厳天皇(北朝、持明院統)による宸筆で、巻末には将軍足利尊氏の奥書が添えられていたと伝わる[1]。現在は権祝本・神長本・武居祝家本等があり、権祝本が善本とされている[5]。
北方史においては、初めて北海道アイヌについてまとまった記述のなされている史料であり、14世紀の和人の目からみたアイヌの習俗やそれを取り巻く北方世界の様子を紹介し、説明した文献資料である[6]。『諏方大明神画詞』によれば、「我国」(日本)の東北には「蝦夷ガ千島」があり、日ノモト、唐子、渡党の「三類」がそれぞれ333の島に住んでいる[6][7]。そのうち、渡党が居住する地域には「宇曾利鶴子(ウソリワケ)別」(=函館)、「万当満伊犬(マトウマイヌ)」(=松前)がある[7]。また、「渡党」の多くが「奥州津軽外ノ浜ニ往来交易」していることも伝えている[7]。
執筆目的
本書の執筆目的については様々に議論されており、2026年時点では一つに確定した定説はない。
しかし、作者の諏訪円忠(小坂円忠)は諏訪大社上社系の諏訪氏の庶流出身であるため、当然注目されるのは、当時の上社の大祝(最高神職)である諏訪頼嗣(直頼)との関係である[8]。
頼嗣は建武2年(1335年)に数え7歳で大祝に職位(即位)・翌年に8歳で再職位し[9]、応永2年(1395年)もしくはそれ以降まで60年以上に渡って諏訪氏一門を率いた[10]。頼嗣は観応の擾乱(1350–1352年)での敗退後に南朝方だったことがあり、本作品の成立年(1356年)時点では南朝宗良親王に仕えていた[11]。しかし、擾乱以前は室町幕府の足利直義の側近として活躍し在京活動もしており[12]、後に幕府へ帰参した後は管領斯波氏と手を組んで幕府中枢と上社の関係強化を図るなど、幕府と連携した大祝の権威強化にも熱心だった人物でもある[13]。
青木隆幸によると、伝説的初代大祝の御衣木法理有員(みそぎほうり ありかず)が8歳で大祝になったという『諏方大明神画詞』の物語は、(7歳で大祝に職位し8歳で再職位した)当時の大祝である頼嗣(直頼)をモデルとして成立したのではないか、という[8]。南北朝内乱で大祝の権威が揺らいだため、円忠の『画詞』と共に、この時代に大祝権威の再構築と諏訪信仰の体系化が進められたのではないか、とする[8]。
頼嗣の評伝を著した日本史研究者の花岡康隆は、頼嗣が様々な上位勢力と結びつきながら信濃国(長野県)の主導権を巡って小笠原氏との死闘を続けた人物だったことを指摘している[10]。さらに、同時代史料での「祝」の用法から言っても、頼嗣自身の世代では童男職位の慣習が確立していなかったと思われ、いいかえれば頼嗣(=『画詞』版有員)をこの伝統の初例とするのは史料との整合性がある、として青木説を肯定的に見ている[14]。
内容
- 縁起(5巻): 諏訪社の起源と諏訪明神にまつわる故事
- 諏方祭(7巻): 諏訪上社・下社の年中祭事
- 巻第一 春上(1月 - 2月)
- 祭二 春下(3月)
- 祭三 夏上(4月 - 5月上旬)
- 神事、大宮にて花会(4月1日、3日、7日)(第一段)
- 上社神宮寺の法会(4月8日)(第二段)
- 大宮臨時神事(4月15日)(第三段)
- 矢崎(やがさき)神事(4月27日)(第四段)
- 御狩押立(5月2日)(第五段)
- 祭四 夏下(5月上旬 - 6月)
- 祭五 秋上(7月)
- 祭六 秋下(7月下旬 - 9月)
- 祭七 冬(10月 - 12月)
- 10月(神無月)には祭典がない(第一段)
- 祭事がないため立ち入りが制限される御狩場・神野(こうや、八ヶ岳西麓)を侵す者の出没(第二段)
- 神使の冬の御立御(11月28日)(第三段)
- 一の祭り、御室(みむろ)の造営(12月22日)(第四段)
- シンフクラの舞(狂言)(12月24日)
- (あらすじ)腹痛を訴える陸奥国の姫君が諏訪明神の御室の中にある「シンフクラ」という鳥を薬にすれば治ると教えられる。御室の前にやってくる使者が神官にその旨を伝えて、鷹を献上する。神官に呼び出された福太郎という犬がシンフクラを捕らえようとする。
- 乱舞興宴(12月28日)、大夜明・大巳祭(12月29日)
- 葛井の池にて御手幣送り(12月晦日)(第五段)
- 御神渡りについて(第六段)
- 御神渡りを自分の目で確かめようとした僧の話