諏訪鉄山

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所在地鉱山 長野県諏訪郡北山村
鉱業所事務所 長野県諏訪郡永明村
 →長野県諏訪郡ちの町1948年
→長野県諏訪郡茅野町(1955年
→長野県茅野市1958年
日本の旗 日本
座標北緯36度2分46.2秒 東経138度16分9.0秒 / 北緯36.046167度 東経138.269167度 / 36.046167; 138.269167座標: 北緯36度2分46.2秒 東経138度16分9.0秒 / 北緯36.046167度 東経138.269167度 / 36.046167; 138.269167
産出物褐鉄鉱(含燐褐鉄鉱・普通褐鉄鉱)
諏訪鉄山
(諏訪鉱山)
諏訪鉱業開発時代の鉱床切羽
所在地
諏訪鉄山の位置(長野県内)
諏訪鉄山
諏訪鉄山
所在地鉱山 長野県諏訪郡北山村
鉱業所事務所 長野県諏訪郡永明村
 →長野県諏訪郡ちの町1948年
→長野県諏訪郡茅野町(1955年
→長野県茅野市1958年
日本の旗 日本
座標北緯36度2分46.2秒 東経138度16分9.0秒 / 北緯36.046167度 東経138.269167度 / 36.046167; 138.269167座標: 北緯36度2分46.2秒 東経138度16分9.0秒 / 北緯36.046167度 東経138.269167度 / 36.046167; 138.269167
生産
産出物褐鉄鉱(含燐褐鉄鉱・普通褐鉄鉱)
生産量粗鋼 1,200,050t[1]
(精鋼換算 846,952t[2]
(1937年 - 1958年累計)
歴史
開山1937年
採掘期間21年間(休山期間を除く)
閉山1962年
所有者
企業日本鋼管株式会社鉱山部
→日本鋼管鉱業株式会社(1944年
→諏訪興業株式会社(1948年
→諏訪鉱業開発株式会社(1950年
プロジェクト:地球科学Portal:地球科学

諏訪鉄山(すわてつざん)は、長野県茅野市北山に存在した露天掘りの鉱山。「諏訪鉱山」とも呼ばれた[3]1937年に開山して日本鋼管川崎製鉄所(神奈川県川崎市、のち日本鋼管京浜製鉄所、現・JFEスチール東日本製鉄所京浜地区)向けの褐鉄鉱を生産し、鉱床枯渇により1962年に閉山した。

年譜

長野県茅野市の芹ヶ沢せりがさわ区と糸萱いとかや区(以上北山地区、旧・北山村)および金山区、新井区、山口区、中村区、上菅沢かみすげさわ区(以上湖東こひがし地区、旧・湖東村)の計7区入会の共有山で、八ヶ岳冷山つめたやま山麓に広がる北山地区芹ヶ沢山外山とやまの北山村湖東村一部事務組合所有地(外山財産区)を中心に、日本鋼管(現・JFEエンジニアリング)の鉱山部が開発した露天掘り鉱山である。

鉱床は硫酸酸性の鉱泉成分が旧石器時代にかけて沢の緩傾斜地に沈殿し形成された[1]酸化鉄などを4割程度含有する低品位の褐鉄鉱で構成され、鉄鋼の強度や靭性を低下させる製鉄上の不純物・リンを多く含有する含燐褐鉄鉱を主に産出した。

含燐鉱はそれまでの日本の鉄鋼業界では資源として見向きされず、鉄山は長く開発されていなかったが、昭和初期から試掘を行っていた日本鋼管が同社の川崎製鉄所に含燐鉱を扱えるトーマス転炉製鋼法[注 1]を導入することになったことから利用のめどが付き、1937年に稼行を開始した。まもなく戦時体制に突入し終戦までの約3年間に激しい濫掘を行ったことで各鉱床の枯渇が早まった。

戦後も日本では1960年代半ばまで賃金水準が諸外国を下回っていたため、国内鉱は資源量に乏しく製鉄需要の1割しか満たせないながらも生産コストは低く、海外鉱よりも割安であった[4][注 2][注 3]。このため国内鉱の需要が高い時代であったにも関わらず[4]1950年代半ば以降の鉱床の相次ぐ採鉱終了と、低品位鉱山ゆえの送鉱分の鉄含有量保持に苦しみ、1962年に閉山した。

開山から閉山までの粗鋼総生産量は120万t余で[注 4]、同種の褐鉄鉱沈殿鉱床として全国的に知られた倶知安鉱山(三井鉱山→日本製鋼所→輪西製鉄→日鉄鉱業、1916年 - 1969年稼行、粗鋼総生産量618万t、北海道虻田郡京極町)や群馬鉄山(日本鋼管鉱業→鋼管鉱業、1943年 - 1965年稼行、粗鋼総生産量226万t、群馬県吾妻郡六合村)などより規模の小さい鉱山であった。

  • 1918年(大正7年) - 鉱業代理人の西村三木雄が芹ヶ沢山外山の鉱業権設定区域で小規模な試掘を開始。
  • 1928年(昭和3年) - 日本鋼管が芹ヶ沢山外山の鉱業権を譲受し試掘開始。
  • 1937年(昭和12年)- 5月、日本鋼管鉱山部が諏訪鉱業所を開設し開山。
  • 1938年(昭和13年)- 茅野駅に鉱業所自家用トラックから貨車への鉱石積み替え用側線が整備され、隣接する構内東側(のち茅野市民会館用地)に諏訪鉱業所事務所および鉱石積込場、鉱石置場を開設。
  • 1942年(昭和17年)- 戦時増産体制が始まり、石遊場と芹ヶ沢区下島地籍(花蒔下)に貯鉱槽を、石遊場-花蒔間に索道を設置。明治鉱区の稼行開始。
  • 1943年(昭和18年)- 6月、鉄道省の貨物自動車線「北山線」が鉱業所トラックに代わり鉱石輸送を開始(戦後休山期を挟み1950年代初頭まで)。
  • 1944年(昭和19年)- 4月、戦時国策会社の日本鋼管鉱業株式会社発足。11月、諏訪鉱業所茅野駅専用側線の供用開始。
  • 1945年(昭和20年)- 8月、終戦に伴い稼行停止し休山(明治鉱区の一部切羽を除く)。
  • 1947年(昭和22年)- 諏訪鉱業所茅野駅専用側線の鉄道施設を全面撤去。明治鉱区一部切羽の稼行も停止。
  • 1948年(昭和23年)- 5月、日本鋼管が諏訪興業株式会社を設立し日本鋼管鉱業から諏訪鉱業所の経営を分離。
  • 1949年(昭和24年)- 諏訪鉱区の稼行再開。
  • 1950年(昭和25年)- 5月、諏訪興業株式会社を諏訪鉱業開発株式会社に改称。
  • 1951年(昭和26年)- 湖東村・ちの町の住民2人による下請け運営で明治鉱区の稼行再開。
  • 1953年(昭和28年)- 明治鉱区の稼行終了。
  • 1959年(昭和34年)- 諏訪鉱区の可採鉱量把握のため通産省東京通産局が試験探鉱を開始(1961年まで)。
  • 1962年(昭和37年)- 3月、東京通産局が試験探鉱の結果について「企業化は困難」と結論。8月10日、諏訪鉱区の稼行を終了し閉山。
  • 1965年(昭和40年)- 7月、鋼管鉱業株式会社が諏訪鉱業開発株式会社を吸収合併。

鉱区・設備

稼行した鉱区は、2~10%のリン分を含む[5]含燐褐鉄鉱を産出する諏訪鉱区(諏訪鉱)とリン含有量の低い普通褐鉄鉱を産出する明治鉱区(明治鉱)の2鉱区で、一部の鉱床を除き、北山村芹ヶ沢山(外山財産区)および芹ヶ沢・糸萱区民の私有農地にあった。いずれも機械力に依らない手堀りによる露天掘りで採鉱した[1]

主力である諏訪鉱区は芹ヶ沢山から湯川山にかけての約2km四方内にある沢筋を中心に各鉱床が点在した。終戦までは最初に稼行が始まった石遊場鉱床のほか、諏訪鉄山で最大の鉱床であった長尾根鉱床や近隣の池ノ胡桃鉱床が稼行の中心となり、戦後は1950年代前半まで石遊場鉱床で稼行したほか、新たに鉱床を確認した緑山鉱床、鉄砲尾根鉱床、中山第三鉱床などに稼行が移った。

諏訪鉄山の諏訪鉱区および明治鉱区で開山から閉山までに採掘が行われた鉱床と鉱区外の鉱業所諸施設の位置関係図。後年のゴルフ場や別荘地の大規模造成により地形や道路が現況と大きく異なるところがある。
諏訪鉱区
長野県登第115号[6][7]
【地権者】北山村湖東村一部事務組合(外山財産区)ほか
諏訪郡北山村
→茅野町北山
茅野市北山
石遊場いしやすば鉱床 最初に稼行が始まった鉱床で採鉱終了までに大きく3つの区域に拡大し、最大の区域は東西360m南北110m、厚さはおおむね2mから10m[8]。戦後も稼行したが枯渇により1950年代半ばには採鉱を終了し残鉱整理に移行。
長尾根ながおね鉱床 諏訪鉄山最大の鉱床で長さ600m幅170m[8]。戦時末期の約3年間に大量動員により濫掘したため終戦時までにほぼ枯渇し、戦後の稼行再開後は残鉱整理のみが続けられた。
池ノ胡桃いけのくるみ鉱床 外山財産区と内山財産区の間に位置する常滑川支流域で芹ヶ沢区などの農家が所有する水田などの民有農地を戦時中に借り上げて稼行。採鉱終了時には原状に戻して返還する契約であったが日本鋼管鉱業は掘り返した荒れ地の状態のまま戦後返還。
社宅裏鉱床 稼行時期不明。金堀場地籍の鉱業所宿舎周囲を取り囲む形で稼行した小規模鉱床。
緑山みどりやま鉱床 弓木ゆみぎ地籍の大河原堰沿いにあった鉱床。名前の由来は戦時中に諏訪鉱業所の徴用工収容施設として接収されたために廃業した旧緑山温泉で、鉱床の南約300mにあった。鉱業所が行った1950年の試験探鉱で存在が確認されまもなく稼行を開始したが、1950年代半ばには採鉱終了。
鉄砲尾根てっぽうおね鉱床 糸萱区上程堀場地籍の山腹で戦後稼行を開始した鉱床。石遊場鉱床の採鉱が終了したのちの末期の稼行の中心となった。
五味出ごみいで鉱床 池ノ胡桃鉱床下流に位置する小規模鉱床で最末期に稼行。鉱床に塊鉱はみられず土状の粉体を採掘した。
長野県採登第140・141号[7]
【地権者】湯川財産区(中山開拓団)→東洋観光事業
中山なかやま第一鉱床 中道境北側の湯川財産区有地内の鉱床。稼行せず。
中山第二鉱床 中山第一と同一の鉱床で上層のみ採掘したが中断したまま稼行終了。中山第一、第二鉱床周辺一帯はともに戦後農林省が緊急開拓地として買い上げ、復員した湯川出身者らでつくる中山開拓団の入植地となった。鉱床は現在の蓼科高原カントリークラブりんどうコース8番ホール南端からしゃくなげコース2番ホールの池にかけてのコース外一帯に相当。
長野県採登第236号[7]
【地権者】湯川財産区(中山開拓団)→東洋観光事業
中山第三鉱床 戦後稼行を開始した鉱床で末期まで稼行したが既にほぼ枯渇しており、諏訪鉱山閉山前に東洋観光事業が蓼科高原カントリークラブの造成に着手。現在の同すずらんコース9番ホールから1番ホールを横断し旧・水明閣バンガロー(現・GREENSOX TATESHINA)を経て旧・白林荘バンガロー(現・TINY GARDEN 蓼科キャンプ場)にかけての一帯に相当。
明治鉱区
長野県採登第143号[7]
【地権者】北山村湖東村一部事務組合(外山財産区)、南大塩外六ヶ耕地入会共有地組合、国有地(冷山国有林)
諏訪郡北山村
葦ぐろ鉱床 戦時中の1942年に稼行が始まった渋川横谷渓谷右岸の芹ヶ沢山の鉱床で、左岸の明治温泉から北東約500m、右岸の渋川温泉保科館(1951年開業)からは東約150mに位置する沢の斜面にあった。明治鉱区側の索道起点があり、鉱区内の他鉱床採掘分を集鉱して石遊場鉱床に上げた。稼行開始当時は対岸の豊平村南大塩山にある渋の湯道から明治温泉を経て渋川を渡る道路しか交通手段がなかったことから「明治鉱床」とも呼ばれ、鉱区全体の総称ともなった。戦後も稼行したが残鉱整理が中心となった。明治温泉は葦ぐろ鉱床の稼行とともに鉱業所の宿舎に接収されていったん閉業。戦後の明治鉱稼行中断で営業再開を果たし、客室増築(1949年)やタイル張り浴室の新設などを行って折から急増した登山客を多く受け入れた。
冷山官林つめたやまかんりん鉱床 渋辰野館対岸の渋川右岸にあった国有林野(冷山国有林1248へ・1247ち林小班周辺)の鉱床。戦後は稼行の記録なし。
清水官林鉱床 渋川温泉保科館東約800mの渋川右岸サカサ川合流地点東方の国有林野の沢とその南側斜面(冷山国有林1248は林小班周辺)にあった。出鉱分はサカサ川を渡る簡易軌道で葦ぐろ鉱床に運び索道で石遊場鉱床に上げトラックに積み替えて出荷した。1952年夏に稼行が始まったが、翌1953年に採鉱終了。
諏訪郡豊平村 豊平山とよひらやま鉱床 渋川左岸の豊平南大塩山(南大塩外六ヶ耕地入会共有地組合所有地)にあり、渋辰野館西方の渋の湯道に沿った沢周辺にあった。戦後は稼行の記録なし。
最末期に稼行した諏訪鉱五味出鉱床跡地。(茅野市北山糸萱区、1989年

鉄鉱石の品位は、普通鉱の明治鉱が鉄含有率52%、含燐鉱の諏訪鉱各鉱床は40%前後といずれも低品位で[9][注 5]、戦中戦後を通じ鉄含有率の保持が鉱業所の最大の課題となった。

特に主力であった石遊場鉱床は35%程度と極端に低かったため[9]、戦時末期の1944年には石遊場に鉱物中の酸化鉄還元する簡易焼結炉20基を設け、当初は動員の旧制中等学校生徒が作業にあたって[9]鉄含有率を45%以上に引き上げた焼結鉱を作り日本鋼管川崎製鉄所へ送鉱したが、有毒の亜硫酸ガスが発生するため作業要員は1945年6月から終戦までは連合国軍捕虜に代えた[9]。この焼結作業は終戦で取りやめとなった。

採鉱作業は、まず下請け業者の作業員で構成する「土取班」が鉱床を覆う草木や土石の掘削除去作業と搬出用の道づくり、搬出用トロッコの軌道敷設を行ったあと、5~10人で構成する採鉱班がツルハシによる人力掘削とダイナマイトによる発破で鉱床を崩し、土取班のものとは別の鉱石用トロッコで搬出した[9]

鉱床内の採鉱現場2~3か所ごとに1基の割合で搬出鉱石を集積する丸太組みの「万石」(ホッパー)が設けられ、一時期を除きここで鉱業所の自家用トラックに積み込み茅野駅東隣の諏訪鉱業所事務所敷地内の鉱石置場に発送した[9]

1942年には石遊場鉱床や花蒔貯鉱場(北山村芹ヶ沢区下島地籍)に合計3,200tの容量を持つ計3基の貯鉱槽が設けられたが、1944年末から終戦にかけての全国的な貨物輸送麻痺とそれに伴う日本鋼管川崎製鉄所の操業停止で、製鉄所へ送鉱できず貯鉱槽にも納めきれなくなった褐鉄鉱が茅野駅の鉱業所鉱石置場にまであふれた状態で戦後まで残された記録があり[9]1949年稼行再開後の出荷記録からの推定では、鉱石置場や貯鉱槽分などを合わせた戦時末期の滞荷量は少なくとも合計1万3,700tあまりに達し、解消には3年を要した[10]

歴史

諏訪鉄山産の褐鉄鉱の塊鉱。茅野市八ヶ岳総合博物館収蔵。(2025年

北山村内芹ヶ沢山の鉄鉱石鉱床は古くから知られ、元亀天正年間に武田信玄が当地で鉄の精錬を行ったという言い伝えもあった[11][1]1879年5月、北山村湯川耕地の柳沢幸助らが、芹ヶ沢山外山の石安場いしやすば(いしやすべ、石遊場[注 6])で「赤油岩」を発見し、内務省東京農学校で分析し褐鉄鉱との結論を得た。

1918年には東京市本郷区の鉱業代理人、西村三木雄が、芹ヶ沢山外山の北弓木きたゆみぎ地籍の鉱業権設定区域を北山村湖東村一部事務組合から賃借して小規模な試掘を行ったが[1][12]、含燐鉱であることから長らく開発は行われなかった[11]

日本鋼管諏訪鉱業所

浅野財閥傘下の日本鋼管株式会社は1928年、西村より鉱業権を譲受し、北山村湖東村一部事務組合の許可を得て同社の鉱山部が試掘を開始した[13]1929年には試掘範囲を拡大し、金堀場・長尾根地籍の私有農地の借り上げを行った[9]

日本鋼管は芹ヶ沢山の含燐褐鉄鉱について、トーマス転炉を用いる新しい製鋼法を採用して利用するめどが立ったことを受け[11]1936年に糸萱区槇寄まきよせ地籍の県道穂積線から金堀場までの輸送用取り付け道路(通称・鉄山道てつざんみち)約800mを開削[9]。翌1937年に直営の日本鋼管諏訪鉱業所を設置した。

1938年、日本鋼管川崎製鉄所に20tトーマス転炉5基を持つ工場が操業を開始したことから[14]、諏訪鉱業所では関東運輸株式会社(旧・浅野同族株式会社回漕部)が下請けとして運営する形で、露天掘りによる鉄鉱石の採掘を本格化させた。

鉱業所は茅野駅までの輸送に自社所有の米フォード製2tトラックを用い[9]、1938年に茅野駅構内北東側の側線(積込線)に面した高さ2mほどのコンクリート擁壁を持つ約2,000坪の敷地(のちの茅野市民会館および同駐車場用地、現・茅野市民館の一部)に諏訪鉱業所事務所と鉱石置場、鉱石積込場を開設[15]。擁壁上に停めたトラックの荷台から鉱石を擁壁下の貨車に直接積み卸した[16]。鉱業所にはトラックのフォードV8エンジンの整備を担当する日本フォード社の専門整備員も常駐していた[9]

戦時体制の強化

1942年の石遊場鉱床の写真。右から2人目は日本鋼管初代社長の白石元治郎。その背後に控えて傘を差すのは諏訪鉱業所所長(のち諏訪鉱業開発社長)の高野太治郎。

1940年に米国がくず鉄の対日輸出を禁止し、翌1941年太平洋戦争が開戦したため、鉱業所は年々エスカレートする国の要求に対応するため戦時増産体制を次々と強化した。

1942年、コンクリート製600t貯鉱槽2基を石遊場に、また同2000t貯鉱槽1基を芹ヶ沢神社(芹ヶ沢子之社)と湖東村山口区花蒔はなまき地籍の間にある芹ヶ沢区下島しもじま(花蒔下)の渋川南岸段丘崖に設け[17]、石遊場─花蒔 (4.6 km) に鉱石輸送用のバケットを設けた索道を設置[9]。花蒔までの鉱石搬出は約40分を要した。同年には諏訪鉱区よりも鉄含有量の多い明治鉱区(葦ぐろ鉱床)の稼行も開始し、明治鉱─石遊場 (2.9 km)間にも索道を敷設した[9]

1943年6月には鉱業所のトラックに代わり鉄道省名古屋鉄道局茅野自動車区の省営トラック(国鉄トラック)北山線が開設され、省営トラックで隊列を編成したピストン輸送が始まったが[18]軍需省はわずか半年後の同年12月には、要求する送鉱量に省営トラックの輸送力が追いつかないとして、戦時特例の「特殊専用側線」制度を適用して当時鉱業所を運営していた日本鋼管に鉱石輸送用の茅野駅専用側線[19][注 7][注 8](俗に諏訪鉄山鉄道とも呼ばれた)を翌1944年9月までに敷設するよう命じ、これに合わせて1944年には石遊場─花蒔間の索道も2線に増強した[9]

1944年4月には日本鋼管鉱山部と傘下の鋼管鉱業(旧社)、武蔵野石灰、日東満俺の鉱業3社を統合した戦時国策会社の日本鋼管鉱業株式会社が発足し、日本鋼管鉱業諏訪鉱業所となった。同年8月現在の鉱山労働者は1,639人で、内訳は鉱山作業員が鉱員328人、徴用工221人、臨時工69人。建設作業員が鉱員339人、徴用工682人。徴用工は諏訪郡内で兵役に服していなかった壮年男性約700人と、朝鮮半島朝鮮人青壮年約200人で、ともに石遊場近くの緑山温泉に収容され採鉱作業に従事した。また立命館大学学生20人、諏訪中学校4年生100人が勤労奉仕隊員として小斉の湯に収容され、中学生は二交代制で石遊場での焼結作業に従事していた。

戦時末期の輸送麻痺

花蒔貯鉱場から上川沿いに米沢村、永明村を経て茅野駅構内の既設側線群に接続する約10kmの駅専用側線は、運輸通信省の受託施工で日本鋼管鉱業移管後の1944年11月に供用を開始し[9]、国鉄上諏訪機関区のC12形蒸気機関車が乗り入れて輸送を始めた。しかし中央本線の輸送力が平時から貧弱であったこと、さらに戦局の急速な悪化と本土空襲の本格化による貨車被災の多発により、鉄道当局がまともな空車回送計画を立てられる状況になかったため、入線して輸送に充てるべき貨車の手配は困難を極め[20]、軍需省の現実離れした机上の計画どおりに京浜地区に送鉱することはそもそもできなかった[20]

状況は日を置かずに深刻化し、年が明けた1945年には全国的に鉄道貨物輸送は麻痺状態となって[20]鉄鉱石の供給が途絶した国内の製鉄所は軒並み操業を停止した[21]。日本鋼管川崎製鉄所でも原料不足から同年2月の第3高炉休風を皮切りに7月には全高炉が休風して操業停止に追い込まれたため[21][注 9]、諏訪鉱区産の含燐鉱を原料とした製鉄は不可能になり[注 10]、鉱業所は出荷先を失った。

しかし軍部はなおも連合国軍上陸後の「本土決戦」における製鉄拠点であるとして、1945年6月には横浜にいた連合国軍捕虜242人を採鉱作業に動員。諏訪鉄山を「非常措置」の対象にして稼行を続行させ、「諏訪地方決戦製鉄設備急設要項」と称する計画策定を始めた[20]。そして山梨県の日本電化工業日下部工場に送鉱して鉄鉱および化学肥料の生産を行う「現地製鉄作業案」をまとめかけた。

しかし程なく終戦を迎え、貯鉱槽に納めきれず茅野駅の鉱業所鉱石置場にまであふれた[9]合計1万tを超える褐鉄鉱の滞荷の山を残して諏訪鉱業所の稼行は停止した[20][注 11]。鉱業所最大の鉱床であった長尾根鉱床は、この戦時末期の濫掘で終戦時にはほぼ鉱床を掘り尽くした[11]

終戦後の経営混乱

終戦に伴い、1945年9月10日に連合国軍兵士は横浜に、朝鮮人徴用工は博多にそれぞれ引き揚げた。鉱業所では明治鉱区で1947年まで普通褐鉄鉱の採掘がごく小規模に継続されたものの[22]、ほぼ休山状態となった[11][1]。諏訪鉱業所は翌1946年からのインフレ激化の中、化学肥料原料として特にリン含有量の高い燐鉱および鉄明礬石鉱の生産を試みて稼行を再開したが、まもなくこれが採算の合わない事業であることが判明し、さらに肥料生産事業に新規参入するとみて納入を見込んでいた相手企業も事業開始を取りやめたため、再び休山に追い込まれた[1]

底なしの軍需と国家総動員体制が供給する潤沢な低賃金労務者に支えられた[23]戦時中から一転して窮地に陥った諏訪鉱業所は、農機具の製造や砂糖生産を目指したテンサイの栽培などを試みたが、ことごとく事業化に失敗した[9]

さらに戦時中に周辺の別荘や温泉施設を廉価で次々に強制接収しては自らの施設に転用していた鉱業所は[24]、戦後も引き続き湯川財産区などの別荘建屋を鉱業所が買い集めて解体し、戦災地が広がる住宅難の東京で高値で売って収入を得ることを企図したが[25]、若者層を中心に蓼科高原の観光客が終戦直後の1945年秋から早くも復活する状況の中[26]、実現するはずがなかった。

こうして鉱業所の経営が場当たり的な策を徒に重ねるばかりで迷走混乱する中、1947年には供用開始以来所期の目的を果たすことができないまま終わった茅野駅専用側線がわずか2年余で全面撤去され[注 12]、用地は1949年1月、沿線の地元町村に無償譲渡された。

日本鋼管は1948年5月諏訪興業株式会社を設立し[27]、関東運輸による操業開始時からの責任者であった日本鋼管鉱業諏訪鉱業所所長の高野太治郎を社長に据えて鉱業権を譲渡[11][1]。諏訪鉱業所の経営を日本鋼管鉱業から切り離した。

諏訪鉱業開発諏訪鉱業所

日本鋼管川崎製鉄所では翌1949年6月、戦時中に休風した全高炉のうち、トーマス転炉用高燐銑を出銑する第4高炉が火入れを行って復旧したことを受け[28]、同年7月にトーマス転炉も操業を再開して[28]含燐褐鉄鉱の受け入れが可能になった。諏訪興業も本格的に諏訪鉱区の稼行を再開し[1]1950年には諏訪鉱業開発株式会社に改称した[27]1951年には湖東村笹原区とちの町の住民2人が下請けで運営する形で明治鉱区の稼行も再開した[22]

諏訪鉱業開発は諏訪鉄山撤退時点でも日本鋼管が株式の35%を保有する[29]筆頭株主で、本社は東京都千代田区神田錦町の日本鋼管神田橋分室に置き、諏訪鉄山の施設のほか、茅野駅に隣接する鉱業所事務所、鉱石置場、鉱石積込場を承継した[11][15]。計画上の生産能力は諏訪鉱(含燐褐鉄鉱)が月産5,000t、明治鉱(普通褐鉄鉱)が同1,500t[11]1950年朝鮮戦争勃発で採鉱量が急伸し、1953年にかけて毎年年産5万t以上、月産4,500t前後の褐鉄鉱を産出した。

採掘した褐鉄鉱は戦後も残っていた石遊場-花蒔間の索道は使わずに石遊場の切羽で直接トラックに積み込み[9]、茅野駅の鉱石積込場まで輸送した[5]。鉱業所は1953年までに日産製の自家用トラック計16台を導入して自社輸送体制を復活させ[9]、国鉄北山線による鉱石輸送を打ち切った。また明治鉱採掘分は索道で石遊場に送ってトラックに積み替えており[5]、明治鉱のうち1952年夏から稼行したサカサ川東方の清水官林鉱床は、ガソリン動力の軌道で葦ぐろ鉱床の採鉱場まで運んでいた[5]。ピーク時の1951年の鉱業所従業員数は約150人だった。

急速な鉱床の枯渇

諏訪鉱業所閉山直前の諏訪鉱業開発の広告。この時点でまだ存在していた各地の鉱業所の名が並ぶがすべて小規模鉱山で、そのほとんどは鋼管鉱業に引き継がれることはなかった。鉱業所の住所はいずれも事務所の所在地で鉱山所在地ではない。(1962年

太平洋戦争中に鉱床がほぼ尽きていた長尾根鉱床に加え、朝鮮戦争が終結した1953年には他の各鉱床でも採鉱に耐えうる鉱石が尽き始めた。鉱業所では日本鋼管が要求する「鉄含有量48%」を維持するため、採鉱された褐鉄鉱を上位、中位、下位に分けた上でブレンドして48%になるように調整して出荷していたが[9]、上位鉱を産出していた明治鉱が同年に稼行を終了[22]したことで維持しきれなくなり、諏訪鉱業所の生産量は縮小に転じた[11]

諏訪鉱業開発は諏訪鉄山の資源枯渇を見越して1949年ごろから、北海道から岐阜県までの小規模な低品位褐鉄鉱山やマンガン鉱山などの鉱業権を多数買い集め鉱業所を次々に開設し[11][30][27]、戦時中に架設され1953年の明治鉱閉山ですべての用途を失った索道設備を撤去して1956年開設の秋田鉱業所に移設するなど[31]、縮小が不可避となった諏訪鉱業所から設備や資機材、従業員をこれら他地域の鉱山に続々と転出させた[11]

しかし東北地方の多雪地帯では露天掘りによる稼行が夏季に限定されるなど、諏訪鉄山での経験則が通用しない所も多く、多くの鉱業所が半年から最長4年程度の稼行に終わった[9]

諏訪鉱業所では戦後の稼行本格化から10年後の1959年時点で、主力鉱床だった石遊場を含む7鉱床が枯渇で既に採鉱終了に追い込まれて撤退もしくは残鉱整理のみを行っており、稼行中の鉱床は糸萱上の鉄砲尾根鉱床と五味出鉱床、それに大部分が採掘済みだった湯川山の中山第三鉱床の計3切羽[1]で、長尾根鉱床での残鉱整理分[1]を合わせた生産量は、戦後最盛期の3割にも満たない月産約1,200t程度であった[1]。現地事務所は糸萱区金堀場かねほりば地籍に置き[注 13]同地籍の事務所下手に売店と社宅、飯場と火薬庫を常滑とこなめ地籍に置き、松ノ木出まつのきいで地籍の貯鉱槽(第一万石)で鉱石をトラックに積み込んで茅野駅の鉱業所鉱石置場に運んだ。

減少する諏訪鉄山の可採鉱量把握のため、諏訪鉱業開発が開山時から持つ長野県採掘権第115号の区域内にあたる金堀場、蕨原わらびはら楢ノ木ならのき芳ヶ等よしがとう遠見場とおみば地籍などでは、1959年から国の新鉱床探査補助金と諏訪鉱業開発の自費負担で通産省東京通商産業局の試験探鉱が繰り返し実施された[32]

その結果、新たな褐鉄鉱鉱床は確認できたものの、厚さ1mに満たない薄いものしかなく[32]、さらに鉱床上の表土は厚く鉱石も土状の粉体を中心としたもので且つ低品位であることから[32]、東京通産局は1962年3月、「企業化は困難」との結論を示した[32]。諏訪鉱業開発は同年8月10日に諏訪鉱業所の稼行を打ち切って諏訪地方から撤退し[31][15]、諏訪鉄山は休山期を挟んで21年間に120万t余りを採鉱して閉山した[9]

閉山後

脚注

関連項目

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