韓国・北朝鮮では、表題にいう「北国」が渤海を指していることを根拠に、新羅は渤海を「北国」または「北朝」と呼んでいたのであるから、渤海でも同様に新羅を「南国」あるいは「南朝」と称していたと推定し、相互に南北国、南北朝という意識をもっていた(推論)ことは、同族意識が共有されていたことのあかしとする断定がある[2]。
一方、崔致遠『謝不許北国居上表』を命名したのは崔致遠ではなく、『謝不許北国居上表』を文集に入れて整理した後代人(『東文選(朝鮮語版)』の撰者など)であり、『東文選(朝鮮語版)』を編纂した高麗王朝人の認識であり、新羅人の認識ではないという批判がある[3]。
酒寄雅志は、「李氏(李佑成、朝鮮語: 이우성、成均館大学)は、新羅末期の文人である崔致遠が『謝不許北国居上表』(『東文選(朝鮮語版)』巻三三)と、渤海を指して『北国』と称したことをおもな根拠に、新羅・渤海の関係を『南北国』対立時代と想定している。しかし、日本僧空海が『遍照発揮性霊集』巻五で、『渤海日本分南北』と記していることや、『本朝文粋』巻九の大江朝綱の詩序の題に、『夏夜於鴻臚館餞北客』とみえることなどから、渤海と日本も南北といわれていたことが判明する。とすればこの『南北』は相対的な位置関係を示しているにすぎないのであって、崔致遠のいう『北国』もまたたんに新羅からみた北方に渤海が位置するだけで、当時、『南北国』対立というような統一的な国家観が存在していたとは考えられない」と評している[4]。
なお、崔致遠は『謝不許北国居上表』において、「渤海は高句麗領内に居住していた粟末靺鞨人によって建国された」と明白に述べている[1]。そして文末近くに「楛矢ノ国ノ毒痛、愈々盛ンナラン」とも記されている。この場合、「楛矢ノ国」が靺鞨の別称として用いられていることは言うまでもない[1]。
臣謹按渤海之源流也,句驪未滅之時,本為疣贅部落。靺鞨之屬,實繁有徒,是名粟末小蕃,嘗逐句驪内徙。其首領乞四羽及大祚榮等,至武后臨朝之際,自營州作孽而逃,輒據荒丘,始稱振國。時有句驪遺燼,勿吉雜流…楛矢国毒痛愈盛。
渤海の源流を考えてみるに、高句麗が滅亡する以前、高句麗領内に帰属していて、取り立てて言うべき程のものでもない靺鞨の部落があった。多くの住民がおり、粟末靺鞨とよばれる集団(の一部)であった。かつて唐が高句麗を滅ぼした時、彼らを「内」すなわち唐の領内(営州)へ移住させた。その後、則天武后の治世に至り、彼らの首領である乞四比羽および大祚栄らは、移住地の営州を脱出し、荒丘に拠点を構え、振国と称して自立した。高句麗の遺民・勿吉(靺鞨)の諸族がこれに合流し、その勢力は発展していった。…楛矢の国の毒痛、益々盛んならん
[1]。
— 崔致遠、謝不許北国居上表
中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。