崔致遠
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868年、12歳のとき商船により唐に留学した。874年に科挙に及第。まもなく黄巣の乱が起こると、高駢の黄巣討伐軍に参加しすぐれた檄文[2]や上奏文を書いて文名をあげた。884年、国信使として新羅に帰国すると「侍読兼翰林学士・守兵部侍郎・知瑞書監」に任ぜられたが、理想を果たすことができなかったために都を出て大山郡(忠清南道扶余郡鴻山面)や富城郡(忠清南道瑞山市瑞山邑)の太守を経た。新羅末期の乱世にあって志を進めることができず却って咎められることが多く、不遇を嘆いて官を辞した。その後は山林の麓や海浜を流浪し、高台を作ったり植林をしながら気の向くままに書籍を読み風景を詩に詠んだりしてすごした。晩年は海印寺(慶尚南道陜川郡伽耶面)に隠棲したと言われる。
多くの優れた漢文、漢詩を残し、高麗の顕宗14年(1023年)には文昌侯に追封され、李氏朝鮮時代に朝鮮漢文学の祖として孔子を祀る文廟に合祀された。
釜山の観光地である海雲台の名は、崔致遠が立ち寄って景観を眺めるために展望台を築いたことに由来する。崔承祐、崔彦撝とともに「一代三崔(일대삼최)」と並び称された。
崔致遠の渤海に対する認識
897年に唐に対して渤海の大封裔が渤海の席次を新羅より上位にすることを要請したが、唐が不許可にしたことを感謝して、崔致遠が執筆し、新羅王である孝恭王から唐皇帝である昭宗に宛てた公式な国書である『謝不許北国居上表』には「渤海を建国した大祚栄は高句麗領内に居住していた粟末靺鞨人であり、渤海は高句麗領内に居住していた粟末靺鞨人によって建国された」と記録されている[3]。『謝不許北国居上表』は、渤海が存在していた同時代の史料であり、また新羅王から唐皇帝へ宛てた公式な国書であることから史料的価値が極めて高い第一等史料とされる[3]。
臣謹按渤海之源流也、句驪未滅之時、本為疣贅部落。靺鞨之屬、實繁有徒、是名粟末小蕃、嘗逐句驪内徙。其首領乞四羽及大祚榮等、至武后臨朝之際、自營州作孽而逃、輒據荒丘、始稱振國。時有句驪遺燼、勿吉雜流
渤海の源流を考えてみるに、高句麗が滅亡する以前、高句麗領内に帰属していて、取り立てて言うべき程のものでもない靺鞨の部落があった。多くの住民がおり、粟末靺鞨とよばれる集団(の一部)であった。かつて唐が高句麗を滅ぼした時、彼らを「内」すなわち唐の領内(営州)へ移住させた。その後、則天武后の治世に至り、彼らの首領である乞四比羽および大祚栄らは、移住地の営州を脱出し、荒丘に拠点を構え、振国と称して自立した。高句麗の遺民・勿吉(靺鞨)の諸族がこれに合流し、その勢力は発展していった[4]。 — 崔致遠、謝不許北国居上表