謝国明
From Wikipedia, the free encyclopedia
臨安(杭州)の出身[2]。のち、日本に帰化し、謝太郎国明(くにあき)と名乗った[2]。妻は日本人で、息子がいた[3]。
謝国明は、大宰小弐の武藤資頼[4]・資能親子に、出資家の筥崎宮や宗像神社などの信任が厚い宋商の綱首であった。
円爾(聖一国師)に帰依し、仁治3年(1242年)、円爾を開山として承天寺を建立した[6]。禅宗をはじめとした南宋の文化を博多に紹介している[2]。箱崎宮領の筑前国那珂郡の野間・高宮・平原の土地を買い、承天寺に寄進した。円爾が南宋で修行した径山万寿禅寺が火災で焼失すると、円爾の依頼により謝国明は材木1,000板を送っている[7]。のち、無準師範より礼状(国宝「板渡しの墨蹟」)を送られた[7][8]。
建長4年(1252年)7月12日の『関東御教書』には宗像大社の社領であった小呂島に関して、謝国明が妻の地頭を名乗って領有権を主張した[9]ことで宗像大社と領地争いになり[10]、宗像社雑掌が鎌倉幕府に社役対捍を訴え、幕府が謝国明を戒告処分としたことが記録されている[11](その後、宗像大社の小呂島所有が保障されている[11])。
弘安3年(1280年)、88歳で死去したとされる[2]。ただ、建長5年(1253年)5月3日に六波羅探題北条長時が記した『六波羅書下』では「遺領」「遺跡」「後家尼」という表現が使われており、その時点で既に死去していたものとされる。
承天寺の東約二百メートルにある墓の跡と伝えられる場所には楠の大木がある。このことから「大楠様」と呼ばれている[12][2]。
ウィキメディア・コモンズには、謝国明の墓に関するカテゴリがあります。