謝石
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前秦との戦い
はじめ秘書郎に任ぜられ、黄門侍郎などを歴任して尚書僕射に至った。また、句難を討伐した功績により興平県伯に封ぜられた[6][7]。
太元8年(383年)、淮肥の役(淝水の戦い)に際して、孝武帝の詔により僕射を解任され、代わって征虜将軍・仮節征討大都督に任ぜられた[5][8][9]。
10月、前秦の苻堅の弟苻融が東晋領の寿陽(寿春)を陥れ、前秦の衛将軍梁成は五万の兵を率いて洛澗に駐屯し、柵を淮水に設けて東方の晋軍を遮断した。このため謝石は甥(兄の謝奕の子)の謝玄・謝琰・桓伊を伴って洛澗から二十五里の地点に布陣したものの、梁成を警戒して進軍までには踏み切らなかった[10]。
他方、先行していた東晋の竜驤将軍胡彬は謝石らに自軍の兵糧不足の旨を伝えるべく密使を遣わせんとしたが、前秦の兵がこの使者を捕らえて苻融のもとへ送ったため、苻融はこれを聴くや苻堅に「敵は少なく捕らえやすい。ただ逃げ去るのを恐れるのみ。速やかにおいでください」と進言した。苻堅は直ちに大軍を項城に留め、自ら八千の軽騎兵を率い、昼夜兼行して寿陽の苻融のもとへ長駆した。更に、尚書の朱序を遣わし「強弱の勢いは明らかに異なる。速やかに降るに越したことはない」と説得するよう命じた。しかし朱序は謝石らのもとへ赴くや、密かに「もし秦の百万の軍勢が全て到着すれば、確かに晋は為す術を失う。今は諸軍がまだ集結していないのに乗じて、速やかに攻撃すべきだ。もし先鋒を打ち破ることができれば、敵はもはや気勢を失い、そのまま撃ち破ることができよう」と進言した。謝石は苻堅自らが寿陽に駐屯したと聞いて大いに恐れ、戦わずして秦軍を疲弊させる策を練ったが、謝琰は朱序の進言に従うよう謝石を諫めた[11]。
11月、謝玄は広陵相劉牢之に精兵五千を率いさせ、洛澗へ急行させた。十里に満たぬところで、梁成が背水の陣を敷いてこれを待ち受けた。劉牢之はそのまま前進して渡河し、梁成と交戦してこれを破り、梁成および弋陽太守王詠を斬った。加えて、兵を分散させ前秦の退路を断ったため、秦軍は総崩れとなり、争って淮水へ逃げ込んだ。その被害は一万五千に及んだという。また、前秦の揚州刺史王顕らを捕らえ、武器や軍需を悉く鹵獲した[12]。ここに至って漸く、謝石らは水陸ともに進軍を開始した[13]。
苻堅は苻融と共に寿陽城に登ってこれを望見し、晋軍の陣形が厳整であったことや、八公山の草木を全て晋軍の兵であると思い込んで「これでもまた強敵ではないか。どうして弱いなどと言えようか」と苻融に言い放った[13]。のち苻堅は偽りの先鋒を退かせて晋軍を誘い込もうとしたが、兵は混乱して退却せず、その虚を謝玄らに衝かれて秦軍は瓦解し風声鶴唳のなか撤兵した[14][15]。
これより先、「誰かお前の堅を石が打ち砕くと言うのか」(原文:誰謂爾堅石打碎)という童謡が謳われたため、桓豁は「石」の名を持つ子を総動員して軍功を稼ごうとしたという。なお、戦勝の発端は梁成を討った劉牢之にあり、謝玄・謝琰らが苻堅を破って勝利を完成させたが、実際に都督に任ぜられて勝利をもたらしたのは謝石であった[16]。
戦後
謝石は戦後、軍功により中軍将軍・尚書令に昇り、南康郡公に封ぜられた。このごろ学校制度が衰微していたため、上奏して国学の復興を請い、貴族の子弟を教育し、命を州郡に下して郷校を遍く整備させようと図った。この上奏は孝武帝に容れられた[17]。
太元10年(385年)、謝安が亡くなると、謝石は衛将軍に昇進し、散騎常侍を加えられた。公事のため吏部郎の王恭と互いに指弾し合い、王恭は激憤して自らの狭量なることを説いたうえで、自らを篤癃人であるとして帰郷を願い出た。謝石もまた上疏して辞職を願い出た。官司はこれを受けて、謝石は勝手に職を去ったとして免官すべきと奏上した。これに対し詔は「謝石は病を理由に官を退こうとしたのであって、どうして常例に照らして処分できようか。説いて復職させよ」と命じた。しかし謝石は一年余り復職せず、十度以上に亘って辞退を上疏したが、孝武帝は許さなかった。そこで謝石はかつての尚書令王彪之の例に倣い、在府のまま政務を総攬することを願って、詔によりこれが許された[18]。
いよいよ病が篤くなり、官は開府儀同三司に進んで鼓吹を加えられたが、拝官する前に死去した。享年62。死後、司空を追贈された。諡号について、朝議において博士の范弘之は謝石の欠点に基づき「襄墨公」とすることを提案したが、結局は単に「襄」とされた[19][20]。
子の謝汪が跡を継いだが夭逝し、謝汪の従兄にあたる謝沖がその子の謝明慧に継がせたが、謝明慧は孫恩の乱の渦中で殺害された。このため謝明慧の従兄謝喩がその子の謝暠に継がせたが、南朝宋の劉裕が東晋の恭帝を簒奪するに及んで国を除かれた[21]。