谷崎歳子
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出自と浅草オペラから軽演劇のスターへ
本名を林 とし[5](またはと志[6][7]、とし子[2])といい、入谷で生まれた[8][4]。1918年(大正7年)[注釈 2]、芸能の道を志した動機は不明とされるが[7]、旭少女歌劇団(のちの東京少女歌劇団)に入団し、鈴木康義(生没年不詳)[9]に師事した[8]。入団した年の11月に『イイダの花園』という作品において人形・ゾフィーという役がついた[5]。さらに『サタンの森』という作品では、病気で休演した園晴枝の代役として舞台で独唱を披露し、好評で迎えられた[5]。
スターへの機会を得た歳子に、さらに飛躍のチャンスが訪れた[3][5]。旭少女歌劇団きってのスターだった一條久子(1904年〈明治37年〉 - 1920年〈大正9年〉)[3]が1918年(大正7年)9月に東京オペラ座に移籍した[3][5]。そのため、その後継者として大役を振られるようになった[3][5]。
旭少女歌劇団は浅草の日本館から少し離れたところに位置する駒形劇場を本拠地としたが、地の利から言ってこれは失敗であり、採算が取れなくなった[5]。1920年(大正9年)2月には、駒形劇場からも撤退せざるを得なくなった[5]。そこで鈴木は浅草に見切りをつけ、名古屋に本拠地を移して劇団名を「東京少女歌劇団」と改めた[5][7]。
東京少女歌劇団の舞台は、常設の歌劇公演を待ちわびていた名古屋のファンに大好評で迎えられた[5][7]。その舞台の中で歳子は歌劇団きってのスターとしての位置を確立していった[5]。歳子は主演級の老け役や三枚目的役柄でその才能を発揮し、『勧進帳』では源義経を演じるなど、幅広い芸域をこなしてさらに人気を高めていった[5]。浅草オペラの情報誌「オペラ」(1922年1月号)が実施した歌劇俳優人気投票では、女優の部で990票を得て1位となっている[7][注釈 3]。
スターとなった歳子のために、後援会が組織された[5][7]。その会歌は歌劇『ミニョン』のアリア「君よ知るや南の国」の替え歌で、次のような歌詞であった[5]。
歳子は新進スターとして当時の有力ジャーナリスト青柳有美に認められ、多くの提灯記事が書かれた[8][5]。浅草オペラは全体として上昇気流に乗り始めていたが、その矢先に一條久子が急死した(死因は白粉の鉛毒とも「猛烈なる性病」ともいう)[3][5]。
オペラ界の花形スター一條久子の死は大きな衝撃と悲しみをもって受け止められ、しばらくその影響が続いた[3][5]。その中で歳子の活躍は注目を集め、東京少女歌劇団の集客と経営安定に大きく貢献した[5]。
歳子はこの時期に鈴木と結ばれ、1925年(大正14年)に一女の母となった[4][6][7]。鈴木は舞台監督や振付などでその才を存分に発揮し、浅草オペラ隆盛の一端を担った人物ではあったが、品行に難があり「スター少女を次から次へと受胎さしむるような醜行を敢てする」などの悪評が囁かれていた[10]。そのうえ鈴木には正妻がいたため結局は別離という結果を迎え、一女は鈴木の親族に引き取られた[注釈 4][6]。
同年、歳子は歌劇団を去った[3]。その後は軽演劇に活動の軸を移し、「鈴蘭座」や「白鳥座」などを結成して浅草の各劇場に出演した[13]。さらに吉本興業の所属となり「金語楼劇団」や「ピッコロ座」に客演して好評を博した[3][13][4]。
歳子は清川虹子、武智豊子などと並ぶ浅草軽演劇界のスターとなった[4]。そして歳子の前に1人の男性が現れた[14]。名を久保 益雄(くぼ ますお)といい、歳子より1歳年下であった[14]。益雄は福岡県田川郡添田町で雑貨商を営む一家に生まれた[14]。藤原(2000年)が指摘するとおり音楽的な生育環境ではなかったものの、父親ははやり歌や浪曲などの芸事を好んでいたという[14]。益雄は18歳のときに東京へ出て、吉本興業の東京事務所に加入した[14]。そこで柳家三亀松についてはやり歌のピアノ伴奏を務めたり都々逸の相三味線を弾いたりと、独学ながらも音楽的な才能を磨いていった[14]。やがて吉本専属のバンドマスターとなり、日本国内だけではなく豪華客船に乗り組んで船内のダンスホールで演奏するなど、日本以外にも活動の場を広げていた[14]。
歳子と益雄は1929年(昭和4年)10月7日に密かに入籍した[14]。2人は入谷に住まいを構えた[4]。そして長男亨(とおる)、次男甫(はじめ)、三男劭(たかし)が生まれた[4]。
益雄との4番目の子が産まれる前後、歳子は重度の腎臓病をわずらっていた[15]。3人の子の母となりながらも、舞台に立ち続けて身体を酷使していたことがその原因であった[15]。瞼まで浮腫がおよぶような身体状況ではあったが、彼女は「今度こそ、女の子かもしれない」と自分の願いを貫いた[15]。
1937年(昭和12年)1月11日、公演の総稽古中の益雄に急な電話の呼び出しがかかった[15]。それは臨月を迎えた歳子が意識を失って倒れたという知らせであった[15]。かなりの難産となったが、色白でドングリ目の元気な女の子が生まれた[15]。この子は「智と美に恵まれる」ように智恵美(ちえみ)と命名された(以後「チエミ」と表記)[15]。
歳子はチエミを出産してから1年ほどで浅草の舞台に戻った[16]。時代は戦時体制へと急速に傾斜し、舞台作品やその表現などにも検閲が強化された[16]。歳子の役柄は次第に母親役ばかりとなっていき、楽屋にチエミを寝かせ、時間ごとに乳を含ませた[16][17]。さらには幼いチエミを抱いたままで舞台に登場し、泣く子をあやすリアルな演技を披露している[16]。
1941年(昭和16年)12月8日、太平洋戦争が開戦した[16]。益雄と歳子は防空頭巾にゲートル、もんぺ姿といういでたちで公演先に通った[16]。そういうときは家に子どもばかり4人が残されることになった[16]。幼いチエミは歳子が仕事に行くたびに「おかあちゃんと一緒に行きたい」と泣いて駄々をこねた[16]。歳子は折れて、チエミとともに浅草まで地下鉄に乗って行った[16]。そんなときのチエミは、地下鉄の車内で「支那の夜」を繰り返し歌うのが常であった[16]。
歳子が柳家金語楼の女房役で舞台に出ていた際、当時4歳のチエミは金語楼に「あたいもお芝居に出る」と言った[16]。その言葉を受けて金語楼が「出て、どうするんだい?」と問い返すと「支那の夜を歌うの」と返事があった[16]。これを聞いたとき、さすがの金語楼も二の句が継げず、歳子ゆずりの度胸の良さと本気を感じ取ったという[16]。
戦時下の世相は日本の大衆芸能に打撃を与え、特に喜劇については「この非常時に笑わせるとはなんたることか」と取締りが強化された[18]。さらに劇場は「高級享楽」とされ、全国で19の劇場が閉鎖となった[18]。そして防空活動に参加できない老人や幼児、病人などに地方への疎開を勧め、まず都内の国民学校児童(3年生以上)が学童疎開の対象となった[18]。
入谷の久保家は空襲によって全焼し、焼け出された一家は大井町の仮住居に移った[18]。しかし、B29は連日のように飛来し、1944年(昭和19年)12月にチエミと兄のうち下の2人は歳子の親戚筋にあたる甲府市の家に移った[18]。その甲府にも戦争の影響が色濃くなった[19]。東京の親戚筋の子が栄養失調で死んだため葬式をするので、歳子が甲府まで子どもたちを迎えに来た[19]。葬式が済んだらまた甲府に戻る予定であったが、上京していったん大井町の家に寄ったまさにその日、甲府が空襲に遭い、疎開していた親戚宅が全焼する被害を受けた[19]。
この時期、益雄は柳家三亀松とともに巡業に出ていた[19]。宇都宮の旅館に滞在しているときに甲府が空襲を受けたニュースをラジオで聞いていた益雄は、一家の命拾いを喜んだ[19]。そして1945年(昭和20年)8月15日、戦争が終わった[19]。
第二次大戦後、そして晩年
歳子は舞台を退いて家庭に入った[20]。久保家は東京都下の三鷹町牟礼に家を借りた[21]。この家は大きな屋敷の離れで一家が住むには小さかったが、雨露をしのぐには充分であった[21]。一家の生計は益雄の働きのみであったが、1947年(昭和22年)益雄は柳家三亀松と意見の食い違いから仕事を失っていた[20]。それから2年の間、一家はずいぶん苦労したという[20]。
歳子は腎臓の病で寝たきりの状態であったが、暗くなりがちな久保家の日常に明るさをもたらしたのはチエミの存在であった[21]。チエミは長男亨とともにかつて歳子の演じた「吉本ショー」を再現して披露した[21]。亨が金語楼役、チエミがその女房役を演じ、病床の歳子が面白がって参加すると、「おかあさん、そこは違うわ」とダメ出しをされた[21]。この寸劇は久保家を訪れる芸人仲間からも大好評で迎えられた[21]。
やがて歳子はチエミから「おかあさん、わたし、歌手になる!」という決意を告げられた[21]。歳子が「どんな歌手になりたいの?」と問いかけるとチエミは「アメリカのジャズ歌手……フランスのシャンソン歌手も素敵だわ」と答えている[21]。そして益雄のもとに、芸人仲間の1人から渋谷の料亭での仕事が持ち込まれた[20]。その仕事は、駐留軍のGIが多く出る酒席で、そこで彼らの歌うジャズソングの伴奏をするというものであった[20]。さらにその仲間は、チエミと亨が演じる「吉本ショー」をよく見ていたため、チエミも一緒に連れていくことを勧めた[20]。歳子は益雄からその話を聞き、チエミの普段着を繕ったうえでスカートを淡いピンク色に染めて舞台衣装へと仕立て直した[20]。益雄は外出用の靴の代わりに運動靴にエナメルを塗ってその代用にし、亨はチエミの衣装にアイロンがけをして仕上げた[20]。
チエミの酒席出演は大好評で迎えられ、彼女の歌を聴いたGIたちから「自分たちのキャンプでも歌ってほしい」と誘いを受けるようになった[20]。さらにGIたちはアメリカから運んできた新曲のレコードを贈ってくれたため、チエミは蓄音機で何度も聞いてそれらの歌を覚えた[20]。こういうとき、英語の指南をしたのはチエミより7歳年長の亨であった[20]。亨は終戦の年に入ったばかりだった陸軍士官学校を中途で終えざるを得なかったものの、生来の勉強好きでしかも英語が堪能であった[20]。このころ歳子はGIたちにも親しんでもらえるようにとの思いを込めて「エリー・チエミ」(すなわち江利チエミ)という芸名を与えている[7][20][22]。
チエミが進駐軍のキャンプで歌い始めた1949年(昭和24年)、益雄が右手人差指に怪我を負い、演奏者としての仕事ができなくなった[20]。怪我の理由は、チエミの舞台衣装を繕うためにミシンがけをしていたところに睡魔の影響で手元が狂い、ミシン針が人差指を貫通したためだった[20]。仕事のできなくなった益雄は茂木了次というプロデューサーのもとを訪ね、チエミへの仕事の斡旋を依頼した[20]。茂木はすでにチエミが進駐軍向けのステージで好評を博していることを知っていて、その依頼を引き受けた[20]。チエミは益雄とともに全国各地の進駐軍キャンプ回りをすることになった[20]。
歳子自身も再起の願いを抱き、1949年(昭和24年)に映画『女の顔』(今井正監督)のオーディションを受けて合格を果たした[7][23][24]。しかし、クランクイン前のカメラテスト当日に歳子はチエミを連れて撮影所に入ったものの、そこで意識を失って倒れた[7][23]。今井は「この役は是非谷崎さんにお願いしたい」と希望し、スタッフたちも彼女の静養後に撮影を再開しようと待っていたが叶わず、医師の判断に従って降板せざるを得なかった[7]。
その後の歳子は舞台に再び立つこともなく病気療養を続けていた[23]。長男亨が歳子の代わりに家事に勤しみつつ、チエミのマネージャー役を務めていた[23]。1951年(昭和26年)6月、チエミがキングレコードのオーディションを受けることに決まった[23]。その話を聞いた歳子は「キャンプで歌っていると思っておやりなさい。チーちゃん(チエミの愛称)を応援してくれる兵隊さんたちのためにも、頑張らなくちゃ」とチエミを励ましている[23]。
チエミとの会話を交わした数日後、歳子の病は悪化した[23]。かねてからの腎臓病に加え、高血圧で2度倒れたことがあったため、甲府から歳子の親戚筋にあたる青柳広子が呼ばれて看病にあたることになった[23]。広子はのちに当時のことを次のように証言している[23]。
歳子さんは、脳溢血で倒れて、意識不明のままこんこんと眠った状態で、お医者さまからは時間の問題と言われました。(中略)益雄さんとチーちゃんはベースキャンプの仕事で出ていました。歳子さんの様子がおかしいのでトオル(注:長男亨)さんを呼び、ハジメさんやタカシさん(注:次男甫と三男劭)も起きてきました。(中略)帰ってきたチーちゃんは〈 なんで!……なんで!〉と叫んで、(中略)泣きじゃくっていました。可哀想に死に目に会えなかった……それが不憫でなりません。 — 『江利チエミ 波乱の生涯 テネシー・ワルツが聴こえる』、pp.85-87.[23]
歳子はチエミのレコード歌手デビューを見届けることが叶わないまま、1951年(昭和26年)6月12日に46歳でこの世を去った[7][25]。藤原(2000年)によると、その死は「チエミがステージで歌う華麗なる夢をまどろんでいるかのような安らかな眠りであった」という[23]。その1週間後、『テネシー・ワルツ』の録音に臨んだチエミは髪を黒いリボンで束ねていた[25]。黒いリボンは母歳子の喪に服する意思の表れであった[25]。歳子の墓所は法徳寺(世田谷区瀬田)にあり、1982年(昭和57年)に死去したチエミも一緒である[7][22]。
評価と人物
藤原(2000年)によると、歳子は小づくりな体格で背は夫である益雄の肩ほどしかなかった[14]。丸顔で目が美しく、美貌というほどではないが愛嬌のある容貌であった[14][7]。
1920年(大正9年)の『日本歌劇俳優写真名鑑』という資料によると、「歌劇界に入りてより未だ一年の星霜に過ぎざれども近来めきめきと上達し青柳有美氏の推奨するところとなれり」と評されていた[8]。翌1921年(大正10年)の『日本歌劇俳優名鑑』という資料では、当時18歳の歳子について「ダンス、踊等相応にこなし、三枚目の如きは非凡のところがある。将来愈々上達すべき有望なる女優の一人たり」と期待をこめた記述が残っている[2]。
小林一三は歳子が主演した舞台『かみついた娘』(三好十郎作)を観劇して「西に天津乙女、東に谷崎歳子あり」と称賛した[23][24]。旗一兵はその著書『喜劇人回り舞台:笑うスター五十年史』(1958年)で、小林の称賛を引用したうえで歳子について「田村秋子、杉村春子の一面に宮城まり子、中村メイコの味を備えた名喜劇女優で、アネゴ的な気っぷのよさから、喜劇界で慕われた」と高く評価している[24]。
歳子や武智豊子と並んで浅草軽演劇界のスターだった清川虹子は、歳子とも親しい間柄であった[4][5]。清川は当時の歳子について次のような証言を残している[4]。
トシちゃん(注;歳子を指す)は底抜けに明るい女優さんで、三枚目も上手なかたでね。お客様を笑わすコツを知っていらっしゃいました。(中略) 浅草の楽屋の隅で、トシちゃんがチーちゃんに乳房をふくませていたのを思いだします。トシちゃんにそっくりの目の大きな赤ちゃんでねえ。 — 『江利チエミ 波乱の生涯 テネシー・ワルツが聴こえる』、pp.50-52.[4]。
清川は歳子の没後、チエミの母親的存在となり、終生にわたって彼女の心の支えともなった[5]。