大井町 (東京府)
日本の東京府荏原郡にあった町
From Wikipedia, the free encyclopedia
沿革
関東大震災
1923年(大正12年)9月1日、関東大震災が発生した。町内では火災がなかったため、死者は東京市内に比べて少なかったが、家屋は38戸が全壊、115戸が半壊した[1]。また、朝鮮人に関するデマが流布され、9月2日の夕方には、町内において、大和煮の缶詰とビールを持った朝鮮人が、爆弾を持っていると勘違いされ、重傷を負う事件が発生した[2]。
東京市では約6割が家を失ったこともあり、当町を含む東京市に近い地域では人口が急増した[3]。震災復旧や、人口の急増による学校をはじめとした施設整備に伴い、町の財政は増え、町民の税負担も増加していった[4]。人口増加と財政状況などから、東京市への編入が必要になり[5]、1932年(昭和7年)10月1日に東京市品川区となった[6]。
年表
人口
鉄道の発達や関東大震災に伴う市部からの移住により、明治後期から人口が急増した[12]。
| 年 | 戸数 | 人口 | 出典 | 備考 |
|---|---|---|---|---|
| 1761年(宝暦11年) | 549戸 | 2,307人 | [13] | |
| 1804年(享和4年) | 555戸 | 2,519人 | ||
| 1830年代(天保年間) | 547戸 | 2,441人 | [14] | |
| 1864年(元治元年) | 754戸 | 3,872人 | [13] | |
| 1872年(明治5年) | 863戸 | 4,187人 | ||
| 1876年(明治9年) | 961戸 | 4,264人 | ||
| 1884年(明治17年) | 971戸 | 4,850人 | ||
| 1887年(明治20年) | 951戸 | 4,776人 | うち本籍人口4,542人[15] | |
| 1893年(明治26年) | 1,700戸 | 5,250人 | ||
| 1896年(明治29年) | 5,602人 | |||
| 1902年(明治35年) | 1,556戸 | 8,644人 | ||
| 1906年(明治39年) | 2,581戸 | 10,619人 | ||
| 1910年(明治43年) | 4,293戸 | 17,038人 | ||
| 1914年(大正3年) | 4,875戸 | 21,445人 | ||
| 1918年(大正7年) | 6,935戸 | 29,925人 | ||
| 1920年(大正9年) | 8,251戸 | 36,669人 | 国勢調査[16] | [注 1] |
| 1925年(大正14年) | 13,240戸 | 58,619人 | [17] | 人口は国勢調査による[18] |
| 1930年(昭和5年) | 14,955戸 | 70,080人 | 国勢調査[18] |
地域
小字の一覧を記す。単独村政のため、大字は設置されていない。特記なき場合、本章では下記を出典としている。
- 御林町(おはやしまち)
- 現在の町域:東大井1丁目(西部および埋立地を除く)・2丁目4・5・8・9番
- 江戸時代から鮫洲とも呼ばれており[注 2]、東京市編入時に大井鮫洲町となった。
- 鮫洲の地名の由来には、浜辺にサメが打ち上げられた説、海中から清水が出て「砂水」「左水」となった説がある。
- 立会原
- 現在の町域:東大井5丁目・6丁目5番の一部
- 東京市編入時に大井立会町となった。
- 地名の由来には複数の説がある。
- 大永4年(1524年)の合戦から「太刀合」と呼ばれ、のちに転じて立会となった説。
- 野菜の市場が立っていたことから立会となった説。
- 林附(はやしづき)
- 現在の町域:東大井1丁目西部・4丁目
- 御林町に隣接していることから名付けられた。東京市編入時に大井林町となった。
- 元芝
- 現在の町域:東大井2丁目1番から3番・10番から12番・3丁目1番から16番
- 東京市編入時に大井元芝町となった。
- 関ヶ原
- 現在の町域:東大井3丁目20・21番のそれぞれ西部・5丁目21番・6丁目、南大井5丁目1・2番のそれぞれ一部
- 東京市編入時に大井関ヶ原町となった。
- 北浜川
- 現在の町域:東大井2丁目13番から28番・3丁目17番から29番(20・21番のそれぞれ西部を除く)
- 地名の由来は、「浜辺に注ぐ川」の意味で浜川となった。1876年(明治9年)の地租改正のとき、浜川のうち立会川左岸を北浜川、立会川右岸を南浜川としたが、寛政年間にはすでに北浜川・南浜川と呼ばれていた。東京市編入時に大井北浜川町となった。
- 南浜川
- 現在の町域:南大井1丁目・4丁目北東部
- 東京市編入時に大井南浜川町となった。
- 海辺(かいへん)
- 現在の町域:南大井2丁目11番・12番・3丁目15番から35番
- 東京市編入時に大井海岸町となった。
- 一本松
- 現在の町域:南大井3丁目3番から6番のそれぞれ南部・7番から14番の全域・6丁目(1番の一部と2番の全域を除く)
- 昔は鈴ヶ森刑場の近くに一本の松が立っていたが、延宝8年8月6日(1680年8月29日)の暴風で倒れた。東京市編入時に大井鈴ヶ森町となった。
- 水神下
- 現在の町域:南大井2丁目1・2・4・5番・3丁目北部・5丁目南部・6丁目1番の一部・2番の全域
- 東京市編入時に、大井鈴ヶ森町と大井水神町に分けられた。
- 寺ノ下
- 現在の町域:南大井4丁目北西部・5丁目北部(1番の一部を除く)
- 大田区南馬込の萬福寺が承応2年(1653年)まで大井6丁目付近にあり、その下にあったことから名付けられた。東京市編入時に大井寺下町となった。
- 坂下
- 現在の町域:南大井6丁目南部、大田区大森北1丁目北部の一部
- 現在の大森駅西口前にある八景坂の下にあることから名付けられた。東京市編入時に大井坂下町となった。
- 倉田
- 現在の町域:大井4丁目(29番の南部を除く)
- 郷蔵のある田地であることから名付けられた説が有力である。東京市編入時に大井倉田町となった。
- 鹿島谷
- 現在の町域:大井4丁目29番南部・6丁目・7丁目27・29・30番
- 鹿島神社があることから名付けられた。東京市編入時に大井鹿島町となった。
- 権現台
- 現在の町域:大井1丁目1番から19番、広町2丁目の南部
- 広町2丁目に大井蔵王権現神社があったことから名付けられた。東京市編入時に大井権現町となった。
- 鎧ヶ淵
- 現在の町域:大井1丁目20番から55番
- 天文7年(1538年)の上杉氏と北条氏の合戦で、鎧武者が多く亡くなったことから名付けられた。東京市編入時に大井鎧町となった。
- 山中
- 現在の町域:大井3丁目
- 東京市編入時に大井山中町となった。
- 滝王子
- 現在の町域:大井5丁目
- 滝王子稲荷があることから名付けられた説が有力であるが、瀧氏(たきうじ)という人が住んでいたことから滝王子稲荷の名前が付いた説もある。東京市編入時に大井滝王子町となった。
- 庚塚
- 現在の町域:大井7丁目(1・27・29・30番を除く)
- 庚塚稲荷があることから名付けられた。東京市編入時に大井庚塚町となった。
- 森下
- 現在の町域:大井2丁目(二葉1丁目との境界付近の一部を除く)、二葉1丁目のうち大井2丁目との境界付近の一部
- 1876年(明治9年)の地租改正のとき、「森」という地域を森下・森前に分割したが、弘化2年(1845年)にはすでに森下と呼ばれていた。東京市編入時に大井森下町となった。
- 森前
- 現在の町域:西大井1丁目・6丁目7番から9番のそれぞれ一部[注 3]
- 東京市編入時に大井森前町となったが、1936年6月15日に品鶴線以西が大井伊藤町に編入された[24]。
- 原
- 現在の町域:西大井2丁目(1・6・9番のそれぞれ一部を除く)・5丁目12番[注 4]
- 東京市編入時に大井原町となったが、1936年6月15日に品鶴線以西が大井伊藤町に編入された[24]。
- 出石(いずるいし)
- 現在の町域:大井7丁目1番、西大井3丁目
- 元禄年間の検知水帳には、出石耕地と記載されている。『大井町誌』では「かなり古い歴史を有する地と思ふ」と記しているが[25]、地名の由来となったものは寛政年間にはすでに失われており、どのようにして名付けられたかは不詳である。東京市編入時に大井出石町となった。
- 金子
- 現在の町域:西大井4丁目・5丁目17番から21番の一部[注 4]
- 金子左近という富豪が住んでいたため名付けられた。東京市編入時に大井金子町となった。
- 谷垂(たにだれ)
- 現在の町域:西大井6丁目(1番の全域・二葉4丁目との境界付近の一部・7番から9番のそれぞれ一部を除く)、二葉4丁目のうち西大井6丁目との境界付近の一部[注 3]
- 東京市編入時に大井伊藤町となった。
- 篠谷(しのやつ)
- 現在の町域:西大井2丁目6・9番のそれぞれ一部と7・8番の全域・5丁目(12番の全域と17番から21番のそれぞれ一部を除く)[注 4]
- 篠竹が多く生えていたことから名付けられた。大井町であった当時は富士山が見え、現在は品川区立冨士見台中学校がある[26]。東京市編入時に大井伊藤町となった。
行政
歴代町村長
財政
関東大震災が発生した1923年(大正12年)から町債の発行が増加している。
| 年度 | 発行町村債 | 備考 |
|---|---|---|
| 1899年(明治32年) | 1,100円92銭 | |
| 1909年(明治42年) | 17,500円00銭 | |
| 1910年(明治43年) | 8,195円03銭 | |
| 1923年(大正12年) | 82,600円00銭 | うち8万円は震災避難児童の仮校舎費[30] |
| 1925年(大正14年) | 165,000円00銭 | |
| 1926年(昭和元年) | 30,300円00銭 | |
| 1927年(昭和2年) | 133,300円00銭 | うち75,000円は小学校建設費[30] |
| 1928年(昭和3年) | 100,700円00銭 | |
| 1930年(昭和5年) | 41,600円00銭 | |
| 1931年(昭和6年) | 10,743円00銭 |
施設
産業
以下に1920年(大正9年)の職業別人口と、1929年(昭和4年)の職業別戸数を記す。なお、両表で職業分類が異なる。
| 農業 | 水産 | 鉱業 | 工業 | 商業 | 交通業 | 公務・自由業 | その他 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 374人 | 285人 | 88人 | 8,779人 | 2,690人 | 762人 | 1,039人 | 967人 |
| 農業 | 工業 | 商業 | 庶業 | 無業 |
|---|---|---|---|---|
| 9戸 | 4,832戸 | 5,702戸 | 4,202戸 | 85戸 |
農業
漁業
字御林町(鮫洲)では昭和30年代まで漁業が行われていた[39]。主な魚は、カレイ、コチ、クルマエビ、ハゼ、キスなど[40]。
下表の海苔業者は、問屋を含まない。
工業
- 品川県営のビール工場 - 明治2年(1869年)浜川(現東大井3丁目)で製造が始まったが、明治4年10月(1871年)にはすでに機械のほとんどが大破していた[45][46]。