賈敦頤
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李淵が起兵すると、敦頤は朝散大夫・尚衣直長となり、江淮を招撫した。杜伏威の討伐に参加した。陝東道大行台度支郎中となり、襄州道行台度支郎中に転じ、倉部郎中となった。趙郡王李孝恭が輔公祏を討つのに従い、功により穀州刺史に任じられた。貞観年間、常州刺史・唐州刺史を歴任した。洛州大都督府司馬となり、入朝して司農寺少卿に転じた[2]。滄州刺史として出向した。清廉な統治で知られた。貞観23年(649年)、瀛州刺史に転じた。滹沱河と滱水が連年洪水の被害に悩まされていたことから、敦頤は堤防や堰を建造し、水害をなくした[3][4]。
永徽3年(652年)、敦頤は蒲州刺史となった[2]。永徽5年(654年)、洛州刺史に転じた。豪族の籍外の占田を摘発し、3000頃あまりを貧民に給与した[3][4]。顕慶元年(656年)7月7日、死去した。享年は69[2]。