赤星四郎
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1895年(明治28年)、実業家・赤星弥之助の四男として東京神楽坂[2]で生まれ、鳥居坂で育った[3]。実業家の赤星鉄馬は実兄、同じくゴルファーでゴルフ場設計者の赤星六郎は実弟。
麻布小学校・中学校を卒業後、1913年(大正2年)に渡米。ローレンスビル・スクールを経てペンシルベニア大学に入学。在学中はアメリカンフットボールの選手として活躍[4]。1921年(大正10年)に帰国して志願して1年間の兵役(陸軍騎兵少尉)を勤めたのち[1]、1923年(大正12年)にスタンダード・オイルに入社。一方でゴルフにも打ち込みコース設計理論も学んだ[5]。翌年にはパインハーストで開催された「プリンス・オブ・ウェールズカップ」で優勝している[6][7]。
1925年(大正14年)に退社したのち、弟の六郎とともに日本のプロおよびアマチュアゴルファーの育成・指導に努めた[8]。また、1926年(大正15年)には日本アマチュアゴルフ選手権で優勝[9](2位は六郎)、1927年(昭和2年)に開催された第1回日本オープンゴルフ選手権では六郎が優勝する一方で自身も4位になっている[6]。1928年(昭和3年)の日本アマでは2度目の優勝を飾った[9]。
コース設計者としては藤田欽哉が設計し自身も関わった霞ヶ関カンツリー倶楽部(東コース)を大胆に改造したチャールズ・ヒュー・アリソンに強い影響を受けた[10]。
単独の設計としては1936年(昭和11年)に函館ゴルフ倶楽部のコース設計を行なったのが最初とされるが、その後も多くのゴルフ場の設計に携わり、広く知られるものとしては箱根カントリー倶楽部(1954年)[11]や御殿場ゴルフ倶楽部(1971年)[12]などがある。晩年には日本女子プロゴルフ協会名誉会長に就任するなど、女子プロゴルファーの育成にも尽力した[13][14]。
親族
脚注
- 1 2 3 赤星四郎『人事興信録. 10版(昭和9年) 上卷』
- ↑ 「熱海の宝石と謳われた歴史ある名門コース」熱海ゴルフ倶楽部。2026年4月11日閲覧。
- ↑ 「ゴルフにおける紳士とは何かが分かる赤星四郎・六郎の本」『日経BOOKプラス』日経BP、2024年3月29日。2026年4月11日閲覧。
- ↑ “日本ゴルフ100年顕彰”. 日本ゴルフ協会 (2013年3月29日). 2018年7月12日閲覧。
- ↑ “コースの歴史”. 富士カントリークラブ. 2018年7月12日閲覧。
- 1 2 武藤一彦 (2018年5月7日). “第1回日本オープンが神奈川・横浜の程ヶ谷GCで行われアマの赤星六郎が初代チャンピオンに輝く”. ゴルフ報知. 2018年7月12日閲覧。
- ↑ アンガス・ロッキャー『From Corporate Playground to Family Resort: Golf as Commodity in Postwar Japan』(レポート)Palgrave Macmillan、2012年4月20日、5頁。http://eprints.soas.ac.uk/id/eprint/13567。2018年7月12日閲覧。
- ↑ デジタル版 日本人名大辞典+Plus. “赤星六郎”. コトバンク. 2018年7月12日閲覧。
- 1 2 “過去の競技・歴代優勝者”. 日本ゴルフ協会. 2018年7月12日閲覧。
- ↑ 大塚和徳「コース改造の歴史的意義 (PDF) 」 、『GCA JOURNAL』(No.18)、日本ゴルフコース設計者協会 p. 8
- ↑ “倶楽部概要”. 箱根カントリー倶楽部. 2018年7月12日閲覧。
- ↑ “コース”. 御殿場ゴルフ倶楽部. 2018年7月12日閲覧。
- ↑ 福島靖 (2012年11月22日). “ゴルフは時空を越えて - 晴れて女子プロと名乗れた日”. Golfweb. 2018年7月12日閲覧。
- ↑ 松島杲三 (2016年8月10日). “女子ゴルフ界の変遷と女子プロゴルファーの台頭”. 日本ゴルフ協会. 2018年7月12日閲覧。
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