神楽坂
東京都新宿区の坂およびその町名
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神楽坂(かぐらざか)は、東京都新宿区で牛込地域南西部に位置する。早稲田通りと大久保通りが交わる「神楽坂上交差点」から外堀通りの「神楽坂下交差点」までの坂である。牛込見附とも呼ばれた牛込門を起点とし、飯田橋駅から神楽坂駅まで台地の二つほどのピークを上り下りしながら、ほぼ直線状に続く坂である。

坂の周辺の地名でもあり、神楽坂一丁目から六丁目がある。全域住居表示未実施。#町名の変遷を参照。江戸時代には、外堀に設置されていた牛込門に通じる交通の要衝だった[5]。
なお大久保通りとの交差点が「坂上」、外堀通りとの交差点が「坂下」[注釈 1]となる。またこの地名は東京メトロ東西線神楽坂駅や都営大江戸線牛込神楽坂駅など駅名にも使われている。
名称の由来と歴史
「神楽坂」の名称の由来について、『江戸名所図会 巻之四』(天保7年)によれば、この坂の右側に高田穴八幡の旅所があり、祭礼で神輿が通るときに神楽を奏したからとも、「若宮八幡の社」の神楽の音がこの坂まで聞こえたからともいわれる[5]。 また、「改撰江戸志」(原本は残っておらず成立年代は不明だが、文政以前にすでに存在が確認されている)には、津久戸明神が元和の頃に牛込の地に移転した時、神輿が重くてこの坂を上ることができなかったが、神楽を奏すると容易に上ることが出来たため、この時より「神楽坂」の名が付いたと記されている。
「坂」自体は1637年、江戸城外堀や牛込門と同時期に整備されたと伝えられる。徳川家光が重臣であった酒井忠清の屋敷に頻繁に下向するため整備されたといわれる。路地裏ないし裏道に入れば、崖下にも近く人目に触れにくいため、江戸時代から岡場所が集まった。
明治期以降、人目に付く場所や建物に貸座敷(待合、男女の密会の場所)を設けることが禁じられたため、このあたりが花街となった。最盛期には料亭が約120軒存在、芸者が700人以上いたとされる。近年は、バーやクラブ、高級レストランが裏道に増え、人気の観光スポットともなっている。
特徴
神楽坂は、全国的にも稀な逆転式一方通行となっており、自動車などの進行方向が午前と午後で逆転する[注釈 2]。午前中は「坂上→坂下」(早稲田側から飯田橋側へ)であるが、午後は「坂上←坂下」となり、通行する際は注意が必要である。逆転式一方通行となった背景に、その昔田中角栄が目白台の自宅から永田町に出勤し(午前)帰宅する際(午後)に便を図ったからともいわれるが、これはタクシーの運転手によって広まった都市伝説である[6]。実際の理由としては、急激な交通量の増加で規制を求める声が上がり、その最中に通り沿いの陶器店に車が突っ込む交通事故が発生、これが元で規制が行われたものの周辺で大渋滞が発生したことから、1956年に都心から西側の住宅地に向けた一方通行となり、1958年に現在の逆転式一方通行になった[7]。
地域
神楽坂付近は、大正時代に隆盛を誇った花街で、飯田橋駅を背にした坂の右手に残る花街特有の路地は、日本でもここにしかないといわれている。また関東大震災以後は、日本橋・銀座方面より商人が流入し、カフェー・プランタンなどのカフェや夜店が盛んになった。山の手銀座と言われた[8]時期はこの時で、林芙美子や矢田津世子の小説にも登場する。坂沿いには商店街が立ち並び、瀬戸物屋・和菓子屋など和を思わせる店舗を中心に軒を並べていた。1932年には、髙島屋10銭20銭ストアもこの地に進出した[9]。田山花袋は「電車がないから、山の手に住んだ人達は、大抵は神楽坂の通りへと出かけて行った」と記しており、都市交通網の整備によって、神楽坂から銀座や日本橋に殷賑の地が移って行ったと解している[10]。時を同じくして関東大震災以降、新宿も急速に歓楽街ないし繁華街として発展し、「山手銀座」の呼称も新宿に奪われていった[11]。
2003年以後から特にチェーン店やコンビニエンスストアの進出が目立ち、それとともに、文具店相馬屋などと共に夏目漱石が通ったという洋食店田原屋といった老舗店舗が急速に姿を消しつつある。また周辺の住宅街でも次々にマンションが建設されており、昔ながらの風情は失われていっている。
表通りから一歩入ると静かな路地が巡らされ、住宅街のなかにレストランや料亭などが多く見られる。かつては江戸期に大田南畝(蜀山人)、明治期に尾崎紅葉・泉鏡花などが住み[12]、尾崎紅葉旧居跡は区指定史跡、泉鏡花旧居跡は区登録史跡になっている。坂の周辺には毘沙門天善國寺をはじめ、若宮八幡や赤城神社など多くの寺社が散在する。
周辺の学校には、東京理科大学や法政大学などがあり、また、かつてリセ・フランコ・ジャポネ(現・東京国際フランス学園)が近隣にあったことや、現在もアンスティチュ・フランセ東京(旧・東京日仏学院)をはじめとするフランス関係機関の多さから、フランス人をはじめ海外からの人も見うけられる。
坂下(飯田橋側)にあった「パラパラ」の殿堂といわれたディスコ「ツインスター」(1992年開店)は2003年8月に閉店し、跡地には結婚式場兼フランス料理店が建てられた。5丁目から矢来町にかけては、著名人なども住む高級住宅地と一般住宅地が混在している。東京メトロ東西線の神楽坂駅を過ぎ、矢来町へ進むと矢来能楽堂がある。休日には歩行者天国になり地元の商店街は多くの人で賑わう。
かつて山の手界隈随一の歓楽街としての性格から、都市再開発を経て2010年代以降はショッピング、カフェの街としてのデザインが確立されている[13]。
阿波踊り
町名の変遷
- 1869年(明治2年) - 江戸期以来の市ヶ谷田町四丁目代地に周辺の武家地を併せ「牛込神楽町」が起立。同年、牛込牡丹屋敷に牛込玉咲町が起立。同年、牛込通寺町が牛込安養寺門前、牛込養善院門前、牛込三光院門前、牛込正蔵院門前を編入。同年、牛込末寺町が牛込末寺横町及び周辺の門前町屋を編入。同年、武家地に牛込宮比町起立。
- 1871年(明治4年) - 牛込肴町が牛込行元寺門前を編入。
- 1972年(明治5年) - 牛込神楽町に牛込玉咲町(周辺の開墾地を含む)及び武家地を併せ、「牛込神楽町一~三丁目」となる。同年、牛込肴町が周辺の武家地及び寺地を編入。同年、牛込通寺町が牛込末寺町及び武家地を編入。同年、牛込宮比町が南北に分割され、牛込上宮比町及び牛込下宮比町となる。
- 1911年(明治44年)5月1日 - 東京市内で町名の簡素化が一斉実施され、牛込の冠称が外れる。
- 1951年(昭和26年)5月1日 - 神楽町一~三丁目、上宮比町、肴町、通寺町が統合され、「神楽坂一~六丁目」となる。
| 1871年 - | 1872年 - | 1879年 - | 1911年 - | 1951年 - (現行) |
|---|---|---|---|---|
| 牛込玉咲町・開墾地・武家地 | 牛込神楽町一丁目 | → | 神楽町一丁目 | 神楽坂一丁目 |
| 牛込神楽町・武家地 | 牛込神楽町二丁目 | → | 神楽町二丁目 | 神楽坂二丁目 |
| 牛込神楽町・武家地 | 牛込神楽町三丁目 | → | 神楽町三丁目 | 神楽坂三丁目 |
| 牛込宮比町 (一部) | 牛込上宮比町 | → | 上宮比町 | 神楽坂四丁目 |
| 牛込肴町・牛込行元寺門前・武家地・寺地 | 牛込肴町 | → | 肴町 | 神楽坂五丁目 |
| 牛込通寺町・牛込末寺町・武家地 | 牛込通寺町 | → | 通寺町 | 神楽坂六丁目 |
世帯数と人口
学区
区立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる(2018年8月時点)[20]。
| 丁目 | 番地 | 小学校 | 中学校 |
|---|---|---|---|
| 神楽坂一丁目 | 全域 | 新宿区立津久戸小学校 | 新宿区立牛込第三中学校 |
| 神楽坂二丁目 | 全域 | ||
| 神楽坂三丁目 | 全域 | ||
| 神楽坂四丁目 | 全域 | ||
| 神楽坂五丁目 | 全域 | ||
| 神楽坂六丁目 | 全域 |
事業所
交通
鉄道
- 他に東京メトロ有楽町線の江戸川橋駅も地域として周辺に存在する
道路
- 東京都道・埼玉県道25号飯田橋石神井新座線---(早稲田通り)
- 東京都道405号外濠環状線ーーー(外堀通り)
