紀元前615年、秦の康公が晋を攻めると、晋の上卿趙盾が軍を率いて河曲でこれを迎え撃った。晋の大夫臾駢(中国語版)は、秦軍は糧秣の欠乏のため長期戦に持ち込むことはできないと判断し、堅守して好機を窺うよう進言した。一方で秦へと逃れていた晋の大夫士会は、臾駢の策を見破って晋軍の兵営への急襲を敢行、しかのみならず趙穿を誘くことにも成功し、趙穿は孤軍で出撃してしまう。このため趙盾は趙穿が秦軍の俘虜となることを憂えて、直ちに出師して救援し、秦軍と暫く交戦したのち撤兵した。そしてこの夜、秦軍も兵を退けた。
紀元前607年、時の晋君霊公が趙盾との軋轢を深めてその暗殺を図るなどしたため、趙穿はこれに憤り桃園に於いて霊公を弑し、未だ越境を為していなかった趙盾が帰国すると、伴って公子黒臀(のちの成公)を後主として擁立した[3]。なお、実際には霊公を弑したのは趙穿であったが、史官の董狐は上卿という地位にありながらその趙穿を誅伐しなかった趙盾を咎め、「盾、其の君を弑す」と記した。この董狐の態度は後世能吏と讃えられた[4]。