趙翼
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商人の家に生まれたが、乾隆帝に認められ軍機処の章京を務めた。その後、乾隆26年(1761年)、進士に及第する。乾隆31年(1766年)、鎮安府の知府となる。本来は殿試一甲第一(状元)であったはずが、偶々一緒に殿試を受けた者の中に災害被災地域出身の受験者であった王杰という者がおり、恩賜によって特別に一甲第一待遇を受けることになり、趙翼は第三位(探花)に合格順位を下げられた[5]。とはいえ、趙翼も進士一甲ではあるため、宰相コースの翰林院勤務となり、翰林院では『通鑑輯覧』を編纂した。しかしその後は辺遠の地方官を歴任。治績は挙げたものの報いられず、失望して母の病気看護のため、官途を去り、帰郷して『二十二史箚記』などの史学の著述に専念した。乾隆52年(1787年)、旧知の仲の閩浙総督李侍堯の幕僚の一員となり、林爽文の乱の平定で功績を上げるが、特に褒美も受けず、その後は、安定書院の主講として著述に専心した。
