慶元4年(1198年)、宰相京鏜から勧められた寧宗により宮中に召され、養子となった。慶元6年(1200年)11月、曮(げん)と名付けられ、福州観察使に任じられた[2]。嘉泰2年閏12月(1203年1月)には威武軍節度使となり、衛国公に封じられ[3]、就学所の資善堂で学んだ。開禧元年(1205年)5月、皇子に立てられ、栄王に進封した[4]。
開禧3年(1207年)、金国に対する北伐の失敗により辺境の情勢が緊迫し、金は和平の条件として戦争を起こした主謀者の処刑を要求してきた。この時、資善党翊善として皇子の教育を担っていた史弥遠の計策に従い、北伐を導いた韓侂冑の粛清を提案している。史弥遠に暗殺された韓侂冑の首級を金に送ることで和議は成立した。同年11月、皇太子となり、幬(しゅう)に改名した[5]。
嘉正元年(1208年)閏4月、朝会の度に皇太子が侍立して政務に参加し、宰執も資善堂に出向いて会議を開くよう命じる寧宗の詔が下された[6]。また、天禧年間に真宗が仁宗を教えた故事に従い、宰相や大臣が東宮に住む皇太子の師傅・賓客を兼ねた。嘉正2年(1209年)8月、立太子の典礼を行い、太廟に拝謁した後、詢(じゅん)に再び改名した[7]。
嘉正13年8月癸亥(1220年9月4日)、享年29歳で薨去。景献と諡された。