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趙謙

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出生 不詳
蜀郡成都県
死去 初平3年(192年)
拼音 Zhào Qiān
字 彦信
趙謙
後漢
大尉・郫侯
出生 不詳
蜀郡成都県
死去 初平3年(192年)
拼音 Zhào Qiān
字 彦信
諡号 忠侯
主君 霊帝 → 献帝
氏族 蜀郡趙氏
兄弟 趙謙、趙温(中国語版)
妻 常紀常(常洽の娘)[1]
子 趙寧
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趙 謙(ちょう けん、? - 初平3年〈192年〉)は、後漢末の人物。字は彦信。益州蜀郡成都県の人。祖父は趙戒(中国語版)[2]。叔父の趙典(中国語版)、弟の趙温(中国語版)と相次いで三公の位に就いた[3]。『巴蜀老旧伝』の編纂にも携わった[4][5]。

中平元年(184年)、汝南太守を務めていたときに黄巾党と戦い大敗した[6]。初平元年(190年)2月、罷免された黄琬[注釈 1]の後任として太尉となり[8]、献帝が遷都する際に護衛を務め、その後に車騎将軍に任命され、洛亭侯に封じられた[8][9][10]。翌年の初平2年(191年)に病を得て辞職したが、7月に馬日磾が太尉になると、趙謙は司隷校尉に任じられた[8][11][12]。

あるとき、車師王の侍子[注釈 2]が董卓の寵愛を恃んでたびたび不法行為を行っていたため、趙謙はこれを捕らえて処刑した[14]。激怒した董卓は報復として、司隷校尉の属官である都官従事を殺したが[13]、もとより敬憚していた趙謙を直接罪に問うことはなかった[14][15][注釈 3]。

『英雄記』によると、犍為太守の任岐が将軍を自称し、益州牧の劉焉に対して反乱を起こした際、董卓は趙謙に命じて益州に侵攻させた。趙謙は劉焉のもとにいた校尉の賈龍を説得して叛かせたが、劉焉は青羌に迎撃させ、賈龍は敗死したという[13][16][注釈 4]。まもなく前将軍を拝命し[17]、白波賊と戦って戦功を挙げ、郫侯に封じられた[8]。

初平3年(192年)4月に董卓が呂布に暗殺され、6月に王允が李傕に殺害されると、彼は王允の後任として司徒に任じられたが、病のために数か月で退任した[8][18][19][20]。後に尚書令を拝命したものの、同年に病没し、忠と諡された[8]。

『華陽国志』によれば、子の趙寧は郷里に帰り、『郷俗記』を著した[21]。

逸話

趙謙と親交のあった清流派の謝弼は、中常侍の曹節の従子である東郡太守の曹紹の讒言により獄死した。趙謙は謝弼の冤罪を晴らすために、初平2年(191年)に上奏して曹紹の罪状を述べ、曹紹を逮捕・投獄してこれを処刑させた[22]。

脚注

参考文献

関連項目

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