趙謙
From Wikipedia, the free encyclopedia
中平元年(184年)、汝南太守を務めていたときに黄巾党と戦い大敗した[6]。初平元年(190年)2月、罷免された黄琬[注釈 1]の後任として太尉となり[8]、献帝が遷都する際に護衛を務め、その後に車騎将軍に任命され、洛亭侯に封じられた[8][9][10]。翌年の初平2年(191年)に病を得て辞職したが、7月に馬日磾が太尉になると、趙謙は司隷校尉に任じられた[8][11][12]。
あるとき、車師王の侍子[注釈 2]が董卓の寵愛を恃んでたびたび不法行為を行っていたため、趙謙はこれを捕らえて処刑した[14]。激怒した董卓は報復として、司隷校尉の属官である都官従事を殺したが[13]、もとより敬憚していた趙謙を直接罪に問うことはなかった[14][15][注釈 3]。
『英雄記』によると、犍為太守の任岐が将軍を自称し、益州牧の劉焉に対して反乱を起こした際、董卓は趙謙に命じて益州に侵攻させた。趙謙は劉焉のもとにいた校尉の賈龍を説得して叛かせたが、劉焉は青羌に迎撃させ、賈龍は敗死したという[13][16][注釈 4]。まもなく前将軍を拝命し[17]、白波賊と戦って戦功を挙げ、郫侯に封じられた[8]。
初平3年(192年)4月に董卓が呂布に暗殺され、6月に王允が李傕に殺害されると、彼は王允の後任として司徒に任じられたが、病のために数か月で退任した[8][18][19][20]。後に尚書令を拝命したものの、同年に病没し、忠と諡された[8]。