呂布
中国後漢末期の武将・群雄、後漢の左将軍・温侯、并州五原郡九原県の人
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事跡
董卓政権下
勇猛さと武芸の腕前を買われ、并州刺史の丁原に仕えた。丁原は、呂布を主簿(会計係[3])に任じて、よく親しみ優待した[4][5]。
中平6年(189年)、霊帝が死去し、十常侍と呼ばれる宦官勢力と外戚である何進とが政争を繰り広げる中、丁原は宦官殺害を目論む何進の命によって、首都の洛陽北部に位置する孟津に火を放ち[6]、後に執金吾に任命された[7][5]。しかしまもなく何進は十常侍に殺害され、十常侍もまた袁紹らに誅殺された[8][9]。

何進の死後、洛陽に入城した董卓は丁原の軍勢を得たく思い、彼からの信頼が厚い呂布を誘って裏切らせ、殺害させた[10][注釈 1]。呂布は董卓から非常に重用され、彼と父子の契りを結んだ[12][5]。後には騎都尉、中郎将に累進して、都亭侯に封じられた[12][5]。呂布は腕力が強く、弓術・馬術にも秀でていたため、前漢の李広になぞらえて「飛将」と呼ばれたという[13][5]。
永漢元年(189年)9月、董卓は何太后の影響下にある少帝を廃し、新たに献帝を擁立した[14]。何太后は数日後に殺された[14][15]。初平元年(190年)1月、董卓に反発する関東諸将が挙兵した[16]。董卓はこれに対して、廃位して弘農王となっていた劉辯(少帝)を殺し[16][17]、2月には長安へと遷都した[12][18]。董卓自身は依然として洛陽に留まっていた[12][19]。
初平2年(191年)、董卓は孫堅との戦いに際し、呂布と東郡太守の胡軫をそれぞれ騎督・大督として討伐にあたらせた。しかし胡軫は「いま行軍するにあたって、青綬[注釈 2]を一人斬るべきだ。そうすれば軍は整い揃うだろう」と触れまわっていた。これを恨んだ呂布は「賊が来た」と偽情報を与え、統率が乱れた最中に孫堅の追撃を受けて敗北した[22][23](陽人の戦い)。董卓は洛陽を放棄して長安まで退き、呂布は洛陽で孫堅と再戦したが敗れた[24]。
董卓暗殺と三日天下
呂布は董卓と父子の関係を結んでおり、常に董卓の傍らにあって護衛をしていたが[25][5]、些細なことで腹を立てた董卓に手戟を投げつけられたことがあり、密かに恨んでいた[22][5]。『典略』によれば、董卓は酔うと呂布を罵り、刀剣で斬りつけたともいう[22][26]。また董卓の侍女と密通していたため[27][注釈 3]、それが露顕することを恐れて不安に思っていた[29][5]。
董卓が実権を掌握し朝廷を牛耳る傍ら、司徒の王允は、士孫瑞、黄琬とともに董卓暗殺を企てた[30][31]。ある時、呂布が交友のある王允を訪ね、董卓に殺されかけたことを話すと、王允は呂布に董卓暗殺計画を打ち明けた[29]。呂布は当初、董卓とは父子であると言って固辞したものの、王允に「貴君の姓は呂であり、もとより〔董卓は〕骨肉(肉親)ではない。今は憂死する暇もないのに、何をもって父子と謂うのか」と説得され、暗殺に加わった[29][5][注釈 4]。
初平3年(192年)4月、董卓が献帝の病の快癒を祝うため宮門に入ろうとすると、詔書を懐に忍ばせた呂布は李粛ら十余名を偽衛子として待機させ、董卓の入門を阻んだ。驚いた董卓に呼ばれた呂布は、詔であることを告げて董卓を殺害した。董卓の親族は三族皆殺しとなり、董卓派は皆処刑された[25][18]。
董卓殺害後、王允と呂布は共に朝政を掌握した。呂布は奮武将軍に任じられ、温侯・儀同三司となり、仮節を与えられた[32][注釈 5]。しかし董卓を殺したことで呂布は董卓派の涼州人に恨まれていると思い、彼らを恐れて憎んだ[33][5][注釈 6]。また王允からは壮健と見なされる傍ら[4][5]、軽んじられ将軍ではなく剣客としての待遇を受けていたため[35]、不満を覚えていた[36]。一方、董卓麾下の郭汜・李傕ら涼州の軍勢は、呂布の予想通り王允ら并州人を憎み、長安を攻めた[33][5]。呂布は郭汜を一騎討ちで破るも[37][38]、防ぎきれず、李傕らに長安を奪われた。呂布は王允を助けようとしたが叶わず[39]、董卓の首を馬の鞍にぶら下げ、数百騎を率いて武関から逃亡した[40]。
中原を彷徨う
呂布は、袁氏一族の仇である董卓を討ったことを感謝しているだろうと思い、袁術を頼ったが受け入れられず、次に袁紹のもとに身を寄せた[41][注釈 7]。袁紹は黒山賊の張燕と戦っているときであったので、呂布を迎え入れ、共に常山の張燕を攻撃した。張燕は精兵1万と騎馬数千匹を率いて勢威を振るっていたが、愛馬の赤兎に乗った呂布と、呂布配下の勇将・成廉、魏越が指揮する数十騎が1日に3、4度も突撃しては首級を得、十日あまり連戦してついに張燕軍を撃破した[42][43]。『曹瞞伝』によれば、呂布は当時、赤兎とともに「人中に呂布あり、馬中に赤兎あり」と人々に語られたという[44][45][注釈 8]。自らの功績を恃んだ呂布はさらに兵力の補充を袁紹に要求したが、それに応えられなかった腹いせに呂布の将兵が略奪を行なったため、袁紹の忌むところとなった。呂布が不安で洛陽に戻りたがっていることを耳にした袁紹は、承制して領司隷校尉とさせる傍ら、呂布のもとへ刺客を送った。しかし自らを謀ろうとしているのではないかと怪しんだ呂布は、帳の中で箏を掻き鳴らさせ、その間に脱出した[47][48]。その報せを聞いた袁紹は恐れをなし、城門を閉じて守りを固めたという[38][注釈 9]。
冀州を出ると張邈のもとに立ち寄り、別れの際手を取り合って共に誓いをたてた。その次は河内の張楊を頼ったが、張楊は長安の意向を受け、諸将と呂布を殺そうとした。しかし呂布が「私は卿(きみ)の州里〔の人間〕だ。卿が私を殺せば、卿の弱みとなる。私を売れば、すぐに郭汜・李傕の爵寵を得ることができるだろう」と告げると、張楊は表向きは李傕・郭汜に従う振りをしつつ、実際は呂布を保護するようになった。そのことを知った長安では、呂布の気持ちをなだめるため、呂布を潁川太守に任命したという[33][38][注釈 10]。

張邈は以前、袁紹と口論になり、袁紹は曹操に張邈を殺させようとしたことがあった。しかし曹操が袁紹に反論したので、張邈は曹操に恩義を感じ親友となったが、呂布の件も含めて、袁紹に色々と恨みを買っていたことから、袁紹の命で曹操に攻撃されることを恐れるようになったという。興平元年(194年)、曹操が徐州の陶謙を討つため兗州を留守にすると、曹操に叛意を持っていた張超と陳宮は呂布との兗州共有を張邈に提案し、彼を迎え入れ兗州牧とし、曹操に反旗を翻した。
張邈に迎え入れられた呂布は濮陽を奇襲し、夏侯惇を捕虜とするも、韓浩によって奪還された[52]。また呂布が濮陽を落とすと多くの城が投降した。しかし荀彧・程昱・棗祗・薛悌等の守る鄄城・東阿・范だけは落とせなかった。
曹操が徐州から戻って来ると、呂布は濮陽に籠城する戦略を取り[53]、曹操が攻撃してくると呂布はこれを連破した[19][54]。しかし旱魃と蝗害によって兵糧が不足し、呂布は曹操に止めを刺し損ね山陽に駐屯した。
その後、呂布は1年以上にわたり激戦を繰り広げたが、兗州連合軍に太刀打ちできず袁紹軍の協力を受けた曹操軍に[55][56]、1万余りを率いて向かった鉅野で敗北した。呂布は夜中に逃れ、雍丘で一族と共に防戦中であった張超と、袁術に援軍を求めて寿春に向かっていた張邈と別れ、徐州を支配していた劉備を頼って落ち延びた。曹操最大の危機はこれで終わった[57]。
徐州を支配
徐州の劉備の元を訪れた呂布は、劉備を敬って「私と卿は同じ辺境出身の人間だ。関東での挙兵を見て私は董卓を誅したく思い、董卓を殺して東に赴いたのだが、関東諸将は私を安んじてくれず、ただみな私を殺そうとしてくるのだ」と言った[27]。そして自身の妻の寝台に劉備を座らせると彼女から劉備に対して挨拶をさせ、酒を酌み交わし弟と呼んだ[27]。劉備は呂布の言葉に一貫性がないのを見てとり、内心彼を不愉快に思った[27][58]。
まもなく徐州を巡って劉備が袁術と戦うようになると、呂布はその隙を突いて、劉備の拠る下邳を奪い取り、その妻子を捕虜にした[41][5][59]。行き場をなくした劉備が呂布に降伏すると、呂布は劉備を豫州刺史とし、自らは徐州刺史を名乗った[注釈 11]。その後袁術は6月に陳宮等と共謀して呂布軍を転覆させようとしたが、呂布がすんでのところで逃れたため失敗した[38]。袁術は呂布が自らに害をなすことを恐れ、自らの息子と呂布の娘との間に婚約関係を結ばせることを提案した。呂布もそれを承認したという[61]。

その後、袁術が紀霊らに歩騎あわせて3万の指揮を任せ、再び劉備を攻撃しようとしたため、劉備は呂布に救援を求めた[62]。配下の諸将が「将軍は常に劉備を殺そうとしていました。今は袁術の手を借りるべきです」と述べるのに対し、呂布は「そうではない。もし袁術が劉備を破れば、北には泰山諸将が連なる。私は袁術の包囲のもとに置かれるのだから、〔劉備を〕救わざるを得ない」と、袁術と臧覇ら泰山諸将による包囲を警戒した[63]。呂布は歩兵1000、騎兵200余りを率いて、劉備・袁術を調停した[62]。呂布は、「玄徳(劉備)は私の弟である。弟が諸君によって困らされているから助けに来たのだ。私は争いを好まない性分で、ただ人々を和解させるのを好むというだけのことだ」と言い、門番に命じて軍営の門に戟を立たせると、続けて「諸君は私が戟を射るのをご覧になり、当たったならば兵を引き、当たらなければ引き続き勝負をつけるのもよい」と告げて戟を射当てた[62]。諸将はみな「将軍は天威である」と驚き、その翌日に両軍は停戦したという[62][5]。
劉備は後に小沛に戻って1万の兵を集めたため、これを疎んだ呂布は劉備を攻撃して破り、小沛を陥落させた[64]。劉備は逃走して曹操を頼り[64]、援助を受けて再び小沛に至った[59]。
呂布は徐州にいた頃、河東にいた献帝から救援の書状を賜った。呂布には兵糧がなかったので救援を送れず、かわりに使者を送った。朝廷は呂布を使持節・平東将軍・徐州牧・平陶侯に任命した[38]。
最期
その後、袁術は韓胤を使者として送り呂布に婚姻を持ちかけたが、陳珪の諫言を受けた呂布は、袁術が最初自分を迎えなかったのを恨んで韓胤を捕え[5][注釈 12]、書簡と共に曹操に送った。この時呂布が徐州牧に就任したという異説がある[66][67]。その後、使者を斬られて怒った袁術は楊奉らと同盟し、張勲に数万の大軍の指揮を委ね、連携して呂布を攻撃した。呂布は3000余りの兵しか持っていなかったために陳珪を責めたが[68]、彼の戦略を受けた呂布は楊奉・韓暹を物資で釣る戦術に打って出て袁術から離反させ、張勲軍のほとんどを殲滅し、袁術軍側の大将だった橋蕤を捕えた[69][注釈 13]。袁術はこの大敗と、後の曹操戦での敗北によって勢力を大きく損失した[71]。
この後、呂布は莒城の蕭建を手紙で投降させたが[38]、独立勢力の臧覇によって莒城が落された。それを受けた呂布は高順の諫めも聞かず臧覇を攻撃したが攻め落とせず、引き返した。また高順は、呂布が短気で気まぐれなので、周囲の言うことを聞いていつも口にする誤りを改めるようにと常に諫めていたが、呂布はその意見を採用せず[72]、陳宮らの反乱後には高順の兵を取り上げて縁戚の魏続に与えた[47]。そして戦争では高順に魏続の配下の軍を指揮させた[38]。
建安3年(198年 - 199年)、呂布はまた袁術と通じ、高順を派遣して小沛の劉備を陥落させると、臧覇らが呂布に従った[73][19]。そこで曹操は自ら大軍を率いて徐州に攻め込んだ(下邳の戦い)。陳宮は曹操軍が彭城を落とすと献策したが、呂布は聞き入れなかった[74]。10月、彭城を屠って下邳に到達した曹操と三度戦うも全て敗北し、籠城した[19][75]。曹操は疲弊した軍を憂え、一度は撤退を考えたが[19]、荀攸・郭嘉の考案した計を採用し、沂水・泗水の水を城内に流し入れて落城させた[41][76]。侯成らは陳宮たちを捕えて呂布を裏切り、呂布は後に部下と投降した。呂布はこの時、部下に自分を売って曹操に降るよう命じたが、部下たちは遂行できなかったという[47][77]。
投降した呂布は捕縛され、曹操の前に連行された。呂布が「私は諸将を厚遇してきたというのに、彼らは危急の際においてみな私に叛いたのだ」と述べるのに対し、曹操が「卿は妻に背いて諸将の妻を関係を持とうとしていたのに、何をもって厚遇したと言うのか」と指摘すると、呂布は黙ったままだったという[27]。「縛り方がきつすぎる。少し緩めてくれ」と言う呂布に対して、曹操は「虎を縛るのにきつくしないわけにはいかない」と答えた。呂布がさらに「明公(曹操)の悩みの種はこの私だけであり、それが服した今、天下に憂うことはない。明公が歩兵の指揮を執り、私が騎兵の指揮を執れば、天下は定まるというものだ」と語った[78]。疑念を抱いた曹操に対し、劉備が進み出て「明公は、呂布が丁建陽(丁原)・董太師(董卓)になしたことをご覧にならなかったのですか」と諫めると、曹操は頷いた[79]。呂布は劉備を指差し「この野郎[注釈 14]こそが一番信用ならんのだ!」と主張したが[50]、縛り首にされた[79][注釈 15]。陳宮・高順は曹操による助命を拒み、同様に処刑された。呂布らの首は晒された上で許に送られ、後に埋葬された[5]。
評価
フィクションや民間伝承
中国では古くから、雑劇や京劇、『三国志平話』、『三国志演義』などで呂布が描写されてきた。ある神話では呂布の方天画戟が龍の化身であるとする。また、民間伝承では呂布は呂良と黄氏という親子の第四子として生まれたとされるが、その時黄氏は虎に襲われる夢を見、呂布が生まれた瞬間に山が崩壊する。呂布の目は精悍で、自ら臍の緒を切って立ち上がったという。また、雑劇や京劇では美男子、才子として描かれ、貂蝉との悲恋を演ずることも多い[97]。
『三国志平話』
『平話』以前においては、呂布は飛将という呼称と「轅門射戟」の逸話を除き、武勇をことさらに語られることは多くなかった[98]。しかし元代の雑劇や「三英戦呂布」(後述)のエピソードが加えられた『平話』では、呂布が突出した武力を持つ者として描かれるようになり、そのようなイメージは『演義』においてさらに発展した[98]。『平話』における呂布の得物が画戟であることには、彼の武力を表現する意図があるという[47][注釈 17]。
一方、『平話』において呂布は小人として印象づけられる[98]。呂布が丁原殺害について「主公(丁原)は度々私を辱めていた。それゆえ丁丞相を殺したというのが本当だ」と弁解する傍ら、丁原の召使たちからは「この者(呂布)は別段の理由があってことを為したのではありません。丁丞相の持つ馬一匹のために、丞相を殺したのです」という証言が与えられる[47][99]。これは『演義』における「董卓が赤兎馬で呂布を買収する」というエピソードの原型と見ることができる[47]。また董卓殺害の原因は董卓に妻を奪われたことが原因とされ、好色なイメージが加えられている[98]。さらに降伏の場面は、張飛・関羽などに捕らえられた後に降伏を迫られるという展開になっている[84]。
『三国志演義』

呂布は『演義』において、身長は一丈、赤兎馬にまたがり、方天画戟を愛用の武器とし、金の冠や華やかな袍を身につけ、煌びやかな鎧を着た豪壮な武者として描かれる[100][注釈 18]。派手なだけでなく兜を着用しない呂布の軍装は、彼の強さを表現する一環となっている[101]。また『演義』諸版本の挿画では、呂布の風貌は登場する場面や挿画を手がけた画工によって変化し、ひげのある姿とない姿とが混在していたが[102][注釈 19]、16世紀末に至ると、場面にかかわりなくひげのない姿で描かれるようになった[104]。呂布が美形として描かれた要因としては、出身地に由来する騎馬遊牧民族のイメージ、とりわけそのエキゾチックな一面に焦点を当てられたことが考えられる[105][注釈 20]。
呂布は作中随一の武勇を誇るが[108]、その驍勇ぶりが特に際立つ描写として、ただ一騎で数万を蹂躙し、張飛と一騎打ちを演じ、さらに関羽・劉備が加わってもなお持ちこたえる「三英戦呂布」が描かれた虎牢関の戦いが挙げられる[108][注釈 21]。
それと同時に、董卓と対立した義父の丁原を赤兎馬欲しさに殺し、王允の連環計の餌食となるなど、私利利欲に目がくらみ道義を忘れる上に謀略にも疎いといった負の側面も描かれる[108]。また『平話』とは異なり、部下たちに裏切られたり、処刑の間際に劉備に助けを求め、生にしがみつく様子を張遼に叱責されたりする描写によって、不仁不義のみならず、命を惜しみ死を恐れる様子が強調される[84]。『演義』にはこのように人物造形を単純化する傾向が見られるが、呂布の場合、叛服常ならない呂布と「義人」として尊ばれる関羽との対比がなされ、後者を称揚する手段にもなっている[84]。
一方、後藤裕也によれば、呂布には袁術と劉備の衝突時に優れた見識を示す面もあるほか[110]、史実と同様に劉備の妻子を二度も保護し[111]、貂蝉や厳氏といった女性たちの意見を重視する情の厚さも窺える[112]。『演義』の呂布は、自分の心に素直な「少年」らしい英雄としても捉えられる[113]。
関連人物
- 親族
- 所属配下
- 同盟関係
- その他