軽快電車
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軽快電車の開発

1960年代後半以降、日本においてはモータリゼーションによる路線廃止とその余剰車の譲受によって路面電車の新造がほぼ途絶え、僅かに建造された新造車も、労働争議の影響もあって従来のシステムを踏襲するに留まり、技術的には完全に停滞状態に陥っていた。このため1970年代後半にはモータリゼーションの嵐を乗り切った当時の西ドイツなどの路面電車先進国と比較した場合、日本の路面電車は著しく見劣りするばかりか、以後発生するであろう老朽車群の代替用新造車の製造さえままならない、という状況に追い込まれていた[1]。
この問題を解決するには「完全新規設計で高性能路面電車を開発する必要がある」と判断された。そこで、路面電車を近代的な公共交通機関として再生を目指して1978年、日本鉄道技術協会内に運輸省・学識経験者・鉄軌道事業者、そしてメーカの代表で構成される「軽快電車開発研究委員会」が設置され、日本船舶振興会(現・日本財団)の助成金の下で各要素技術ごとの開発が、車両・機器メーカー各社とユーザーである幾つかの路面電車経営企業の共同作業で進められることになった[2]。
開発は1978年度(昭和53年度)から1980年度(昭和55年度)まで3年度間で行い、昭和53・54年度で構成要素について開発、最終年度の昭和55年度(1980年(昭和55年)夏)に開発した機器を実装した実用試験車として広島電鉄3500形3車体連接車1編成、およびその技術を反映した長崎電気軌道2000形2両が、それぞれ竣工した[3][2]。こうして誕生したのが軽快電車である。3年度間に及ぶ開発費用1億5,000万円のうち、6割程度が日本船舶振興会の補助金で賄(まかな)われた[4]。
- 日本船舶振興会による助成金額(総額8,300万円)
| 事業名 | 助成金額 | |
| 1978年度 (昭和53年度) |
軽快電車の構成要素の開発 | 3,100万円 |
| 1979年度 (昭和54年度) |
軽快電車の構成要素の開発 | 3,000万円 |
| 1980年度 (昭和55年度) |
軽快電車の走行実用実験 | 2,200万円 |
軽快電車のシステム
軽快電車の開発には川崎重工業(現:川崎車両)・東急車輛製造(現:総合車両製作所)・アルナ工機(現:アルナ車両)・三菱電機・東洋電機製造・富士電機製造(現:富士電機)・住友金属工業(現:日本製鉄)・日本エヤーブレーキ(現:ナブテスコ)が参加し、それぞれが構体や機器類を分担して製造し、組立を川崎重工業兵庫工場で実施した。
開発設計方針
- 振動・騒音の少ないこと
- 高加速・高減速であること
- 乗客に対して魅力あること
- 運転操作が容易であること
- 保守が容易であること
- 安全性を重視していること
- 省エネルギー車両であること
- 部品の標準化を図ること
システム的には、直流複巻式電動機で回生ブレーキを常用[5]する電機子チョッパ制御、応答性が良く強力な油圧キャリパー方式ディスクブレーキと、これを制御する電気指令式ブレーキシステム、主電動機の両端軸からハイポイドギアと中空軸カルダン継手を介して車軸を駆動するモノモーター方式直角カルダン駆動、車輪のリムに防音リングを圧入した防音車輪を装備するインサイドフレーム式空気ばね台車、それに冷暖房兼用可能なヒートポンプ式空調装置[6]、と開発当時の高速電車用技術を可能な限りコンパクト化の上で持ち込み、更に欧米の先行事例を参考に、路面電車ならではの新技術を採用している事が窺える。
人間工学的考察も行われ、特に運転士の運転作業改善のために1軸両手式のワンハンドルマスコンなどが採用され、後の路面電車の新造車設計に長く踏襲された。
もっとも、この内チョッパ制御やインサイドフレーム式台車の採用は、参加メーカーの一つである東急車輌製造がボーイング・バートル社の下請けとして1970年代中盤に設計した、サンフランシスコ市営鉄道(Muni:San Francisco Municipal Railway)およびマサチューセッツ湾輸送公社(MBTA:Massachusetts Bay Transportation Authority)向け標準ライトレール車両(SLRV:Standard Light Rail Vehicle)で既に実績があったもの[7]であり、この軽快電車の開発に当たっては、そういった参加各メーカーの輸出車両開発経験が持ち寄られ活用されただけでなく、以後、各社が製造を担当する輸出向け車両のための技術蓄積という意図も含まれていた。