輔公祏
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輔公祏は隋末、同郷の杜伏威と共に兵を起こして盗賊となり、淮南一帯を転々としながら活動した。杜伏威の勢力が次第に強大になると、自ら総管と称し、輔公祏を長史に任じた。[2]
李子通が沈法興を破って江都を占拠すると、杜伏威は輔公祏に命じて精鋭数千を率い長江を渡らせ、李子通を討たせた。李子通は数万の兵を率いて迎え撃ち、その軍勢は極めて盛んであった。輔公祏は甲士千人を選び、長刀を手に最前線に立たせ、さらに千余人を後続として配置し、「退く者は斬る」と厳命し、自らは残りの部隊を率いて後陣を固めた。やがて李子通が方陣を組んで前進してくると、輔公祏の放った千人の長刀隊は決死の戦いを繰り広げ、輔公祏は左右両翼を繰り出して挟撃した。李子通軍は大敗して潰走し、数千人が投降した。[3]
間もなく輔公祏は杜伏威と共に使者を遣わして唐に帰順した。武徳二年、朝廷は輔公祏を淮南道行台尚書左僕射に任じ、舒国公に封じた。[4]
もともと杜伏威と輔公祏は年少の頃より親しく、輔公祏が年長であったため、杜伏威は常に兄の礼をもって遇した。軍中では輔公祏を「伯」と尊称し、その畏敬のほどは杜伏威にほぼ等しかった。しかし杜伏威は次第に猜疑心を抱くようになり、養子の闞棱を左将軍に、王雄誕を右将軍に任じ、輔公祏を僕射に推して表向きは尊崇する姿勢を示しながら、密かにその兵権を奪った。輔公祏はその意図を察し、心中穏やかならず、旧友の左遊仙と共に道術の辟穀を学ぶと偽り、韜晦して権力の中枢から身を遠ざけた。[5]
武徳六年(『旧唐書』は武徳五年とする[6])、杜伏威が長安に入朝するにあたり、輔公祏を留守として後方の守備を委ね、さらに王雄誕に兵権を掌握させてその補佐役とし、密かに王雄誕に「私が都に入って職を失わぬ限り、輔公祏に変事を起こさせてはならぬ」と言い含めた。その後、左遊仙が輔公祏に反乱を勧め、折しも王雄誕が病で自宅に臥せっていたため、輔公祏はその兵権を奪い、「杜伏威は江南に帰還できず、書を寄こして挙兵を命じた」と偽って称した。同年八月、輔公祏は僭称して帝位に即き、国号を宋と定め、陳朝の旧宮殿を都として居を構えた。王雄誕を殺害し、百官を設け、左遊仙を兵部尚書・東南道大使・越州総管に任じた。また兵器や甲冑を大々的に修造し、兵糧を輸送し、将の徐紹宗を海州に、陳正通を寿陽に侵攻させた。これより先、毗陵に拠っていた呉興の賊帥沈法興も輔公祏によって撃破された。[7]
高祖李淵は趙郡王李孝恭に命じて軍を九江へ急行させ、嶺南大使李靖には宣城へ進軍させ、懐州総管黄君漢は譙郡から出撃し、斉州総管李世勣は淮水・泗水沿いに進発し、諸方面から輔公祏を包囲攻撃した。李孝恭は蕪湖および梁山の三鎮を攻略し、河南安撫大使任瓌は揚子城を奪取し、偽将の龍龕を帰順させて揚州を占拠した。輔公祏はさらに馮恵亮・陳当世を博望山に、陳正通・徐紹宗を青州山(『旧唐書』は青林山に作る[8])に駐屯させて唐軍を防がせたが、李孝恭は諸将を率いてこれを大いに破り、馮恵亮・陳正通は敗走した。李靖が百余里にわたって追撃したため、輔公祏の軍勢は潰滅し、陳正通らはわずか五百騎(『旧唐書』は五騎に作る[9])で丹陽に逃げ帰った。[10]
輔公祏は敗報を聞いて恐れおののき、城を捨てて会稽の左遊仙のもとへ逃れようとした。当時なお数万の兵を擁していたが、毗陵に至った夜には従者はわずか五百人ほどに減っていた。偽将の呉騒・孫安が輔公祏を捕らえようと謀ったため、輔公祏は妻子を捨て、城門を斬り破って脱出し、腹心の士数十人と共に武康にたどり着いたが、土地の郷民に捕らえられて丹陽に送られた。李孝恭はこれを斬首し、その首級を京師に送った。[11][12]
伝記資料
脚注
- ↑ 『新唐書 巻87 列伝第12』:輔公祏,齊州臨濟人。
- ↑ 『新唐書 巻87 列伝第12』:隋季與鄉人杜伏威為盜,轉掠淮南。伏威兵浸盛,自號總管,以公祏為長史。
- ↑ 『新唐書 巻87 列伝第12』:賊李子通據江都,伏威使公祏以精卒數千度江擊之。子通拒戰,眾十倍,銳甚。公祏選甲士千人,操長刀居前,別以千人隨之,令曰:「卻者斬!」公祏以眾殿。俄而子通方陣而進,長刀千人皆決死鬥,公祏縱左右翼搏之,子通大潰,降其眾數千。
- ↑ 『新唐書 巻87 列伝第12』:伏威既遣使歸國,武德二年,詔授公祏淮南道行臺尚書左仆射,封舒國公。
- ↑ 『新唐書 巻87 列伝第12』:初,伏威與公祏少相愛,又兄事之,故軍中呼輔伯,尊禮略等。伏威稍忌之,乃署養子闞棱為左將軍,王雄誕為右將軍,推公祏為仆射,陰解其柄。公祏內怏怏不平,乃與故人左遊仙偽學辟谷以自晦。
- ↑ 『旧唐書 巻56 列伝第6』:武德五年,伏威將入朝,留公祏居守,復令雄誕典兵以副公祏,陰謂曰:「吾入京,若不失職,無令公祏為變。」其後左遊仙乃說公祏令反。
- ↑ 『新唐書 巻87 列伝第12』:六年,伏威入朝,留公祏居守,復令雄誕握兵副之,陰誡曰:「吾至京不失職,無容公祏為變。」後左遊仙說公祏反,會雄誕以疾臥家,公祏奪其兵,紿言伏威移書令舉事。八月,遂僭位,國稱宋,即陳故宮都之;殺王雄誕,署百官,以左遊仙為兵部尚書、東南道大使、越州總管;增修器械,轉廩食,遣將徐紹宗侵海州,陳正通寇壽陽。
- ↑ 『旧唐書 巻56 列伝第6』:又遣其將馮惠亮屯於博望山,陳正通、徐紹宗屯於青林山以拒官軍。
- ↑ 『旧唐書 巻56 列伝第6』:紹宗、正通以五騎奔於丹陽。
- ↑ 『新唐書 巻87 列伝第12』:詔越郡王孝恭趨九江,嶺南大使李靖下宣城,懷州總管黃君漢出譙,齊州總管李世勣繇淮、泗討之。孝恭取蕪湖,下梁山三鎮。河南安撫大使任瑰拔揚子城,降偽將龍龕,遂據揚州。公祏復遣將馮惠亮、陳當世屯博望山,陳正通、徐紹宗屯青州山以拒戰,孝恭率諸將破之,惠亮、正通走,李靖躡追百餘里,眾悉潰,正通等以五百騎奔丹陽。
- ↑ 『新唐書 巻87 列伝第12』:公祏懼,棄城奔左遊仙於會稽,兵尚數萬。夜至毘陵,能從者裁五百。偽將吳騷、孫安謀執之,公祏棄妻子斬關遁,與腹心士數十抵武康,野人執送丹陽,孝恭斬之,傳首京師擊李子通,始公祏佐伏威起據江東,距公祏死,凡十三年。
- ↑ 『旧唐書 巻56 列伝第6』:公祏懼而遁走,欲就左遊仙於會稽,至武康,為野人所執,送於丹陽,孝恭斬之,傳首京師。