遊義門院一条局
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『増鏡』「春の別れ」によれば、後醍醐天皇の第二皇子世良親王の母は「西園寺の宰相中将実俊の女」という人物だった[1]。そして、世良は昭慶門院(世良の伯母に当たる憙子内親王)に愛育され、賢臣「後の三房」のひとり北畠親房が乳父(教育係)を務めたという[1]。何故、世良が実の母ではなく伯母の昭慶門院に育てられたのか、理由は書かれていない[1]。出産直後に没したとも考えられる。
世良の出生年については、平田俊春・森茂暁は、徳治年間(1306年 - 1308年)だと推測している[2]。
史料が少なく、尊治親王時代の後醍醐と遊義門院一条局が、上記以外にどのような関係だったのかは不明である[2]。しかし、皇子の世良親王が後醍醐に将来を嘱望され、手厚く教育されたのは確かである[3]。世良は早逝したが、その時の後醍醐の嘆きと哀しみはきわめて深かったという(『増鏡』「むら時雨」)[3]。