『書紀』巻第二十七の天智天皇7年11月(668年)の記述によると、道守臣麻呂は、吉士小鮪(きし の おしび)とともに新羅からの使節、金東厳(こんとうごん)の送使として新羅に派遣されており、三国時代以後の朝鮮半島への遣使としては最初の使者となった[1]。これには、白村江の戦い・高句麗滅亡以後、半島の支配を巡り、唐と新羅が対立したことが背景にあり、白村江で両国軍と交戦した倭国側としては、新羅との国交回復をさぐる重要な使節でもあった。
道守麻呂らしき人物は、『播磨国風土記』にも現れ、そこには
船引山
[2]、近江
(あふみ)の天皇
(すめらみこと)の世に、道守臣
(みちもりのおみ)、この国の宰
(みこともち)となり、官
(おほやけ)の船をこの山に造りて引き下さしめき。故
(かれ)、船引
(ふなびき)といふ
(船引山、近江天皇(=天智天皇)の世に、道守臣が、この(播磨)国の地方官となり、官用の船をこの山で造り、引き下ろさせた。故に、船引山という)
[3]
とある。この遣新羅使に際して造船したと思われる。
天武天皇13年(684年)八色の姓の制定により、道守臣氏は同年11月に他の52氏とともに朝臣姓を賜姓されている[4]。