邪馬台国九州説

邪馬台国が九州にあったとする学説 From Wikipedia, the free encyclopedia

邪馬台国九州説(やまたいこくきゅうしゅうせつ)は、『魏志倭人伝』に記載される邪馬台国の所在地を九州に比定する学説である。畿内説との間で論争があったが、考古学の成果などから畿内説が優勢である[1][2][3]

九州周辺の地形図

概要

邪馬台国がどこにあったかという議論は、卑弥呼を記紀のどの人物に比定するかという議論と合わせて、早くは8世紀初頭の『日本書紀』編纂時点からおこなわれてきた。文献解釈から考古学的成果の適用を経て、戦後は所在地よりも倭国の社会構造や東アジアからの視点での議論が深められている(→邪馬台国畿内説#研究史)。

かつて所在地論争で問題にされた方位と距離の問題はいずれも『三国志』編纂当時の世界観を考慮することで矛盾はなくなり、考古学の成果からは纒向遺跡が邪馬台国の王都と目されている(→邪馬台国畿内説#論拠)。

総じて、所在地については21世紀現在で畿内説(大和)が優勢である[4]。他方、九州説では遺跡の不在、比定地の不一致などが弱点とされる(→#論拠と弱点)。

研究史

2006年現在、平野邦雄小澤毅の一部の指摘を除く九州説の近年の議論は、ほとんどがかつての九州説の焼き直しであり、重厚な研究史を踏まえられていないと批判されている[5]

論拠と弱点

笠井新也は邪馬台国の位置を推定する基準に「地名の一致」、「遺跡の一致」、「行路・行程の一致」の3点を挙げた[6]久米邦武も「邪馬台の考証時代」(文献解釈)と「其地を探検すべき時期」(遺跡の比定)を考えていた[7]

地名

上代特殊仮名遣いの検討から、「邪馬台」の「台」は乙類、畿内大和の「と」も乙類である一方、筑後山門の「と」は甲類に属することから、九州説では邪馬台国の音に完全には一致しないという[8]

2006年現在、近年の九州説はかつての筑後山門説のような一致した比定地を持っていないことが弱点の一つとされる[9]

文献解釈

『魏志倭人伝』に記載された方位と距離に従って邪馬台国の位置を求めると、九州南方の海上に存在することになってしまう[4]。従来は、畿内説を採るには方位を疑い、九州説を採るには距離を疑う必要があると考えられていた[4]

しかし研究が進展するなかで、『魏志倭人伝』をそのまま読むのではなく、『三国志』を編纂した陳寿の偏向、の内政と外交、陳寿たち史家の世界観といった当時の事情を加味したうえで記述を読み解くことで、「短里」説や「放射コース」説といった特別な読みかたを想定することなく方位、距離いずれの問題も解消されることとなった[10]

考古学

九州説の弱点として、邪馬台国時代の遺跡の不在が挙げられる[3]吉野ヶ里遺跡の発見により、邪馬台国が発掘された、あるいは九州説が断然有利になったという一般的なイメージが流布したものの、実状としては里程の不一致、邪馬台国時代における衰退から吉野ヶ里遺跡を邪馬台国に比定することは現実的でない[11]

一方で、3世紀に九州北部の優位性が失われたという考古学からの指摘があるというが[3]、これについては日本列島における朝鮮半島の土器の出土分布を検討した久住猛雄によれば、2世紀末の倭国乱の時期に九州北部と楽浪郡との「原の辻=三雲貿易」が衰退することは確認できず[12]、むしろ畿内の新たな倭王権が九州北部の勢力との直接的な関係を取り結ぶことで大陸との交渉をスムーズにしたという様相が復元できる[13]

脚注

参考文献

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